春の風のように

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春の風のように

気分が、変わっていた。 いつもは下宿に真っ直ぐ帰るところを、安売りをしているスーパーに行くでもなく、喫茶店にも本屋に行くでもなく、ゲームセンターのある通りを歩こうと思った。 いじめられ体質だったから、ほとんどよりつくことのないゲームセンター。ボウリングのピンが目印の大きなゲームセンターを中心に、その通りには薄暗い店舗が幾つか並んでいる。 そのうちの手前から三番目の店と四番目の店の間に、エクセルの結合忘れのような小さな路地裏が一本、直線で通っている。海斗が通る散歩路は決まってそこで、ゲームセンターのある通りに出る前にUターンをする。 特に意味はない。入学式の日、桜並木を散歩していたら猫が教えてくれた路だった。その先には興味もなく、踏み入れる勇気もなく、T字路の交差点まであと十数歩のところで眺めているだけだ。 クルーザーは大学に停めたままで、ヘルメットだけ手に持っている。 途中にある小さくて狭い十字路にはぶち猫が巣を作っていて、海斗はお土産の猫缶を添えて眺めていた。 (永瀬くん、かあ……) 大学に入って二年、やっと知ったクラスメイトの名前だった。 去年仲良くしてくれた知人たちは皆、サークルや部活動の交流を優先して大学に来なくなっていた。だから、久しぶりに名前で呼べる知人ができたのだと、海斗は今になってようやく嬉しさを感じた。 「へへ……」 ぶち猫の子供がミーミーと泣きながら猫缶を貪る。身体は小さいが、すっかり大きくなったトラ猫はぶち猫の産んだこどもたちの唯一の生き残りだ。 手にすり寄ってくる猫を指先で相手にしながら、顎を上向ける。 くっきりと十字架の形に切り取られた空は、絵の具のように真っ青だ。 「おい、そこジャマ」 声をかけられたことに、気付いてなかった。どん、と肩を押されてなすがままに横に転ぶ。 「……うわっ、わっ?!」 座り込んでいたものだから、受身も取れずに頬がコンクリートで擦れた。 ずっずっと音を立てて、踵の踏み潰された運動靴が後頭部の真後ろを通り抜けていく。 「な、な、あ……?」 なんだ、とすら言えない。横目でぶつかってきた相手を見上げると、ぽたりと何かが頬に落ちてきた。 長い黒髪が尻尾のようにぴょんと跳ねる。青白い肌とスポーツメーカーのジャージとそれが、海斗が見えた相手の特徴だった。 起き上がり、ヘルメットを抱えていた手で頬に触れると、鮮血色の液体が指先に付いた。 「っうわ!」 気づいたら、相手の手首を掴んでいた。 「なんっ……て、お前かよ」 振りかざされた拳はすんでのところで止められて、相手が肩の力を抜いたのがわかった。 思ったより、背が小さい。海斗は183センチだから、大抵の男子はみんな背が小さい。 ジャージの彼も、顔一つ分程度低いだけで、普通の男子だった。 赤いヘアピンで前髪を留めて、ゲームセンターのある通りからジャージ姿で来たところを考えて、中学生か高校生かなと考える。 呆と見つめている間にもこめかみから流れ出る血に、言おうとしたことを思い出した。 「あ、あ、あ、あの、ち、ち……」 「あ?お前、眼鏡の井坂だ」 眼鏡は今もかけているから間違ってはいない。いないけど、その呼び方は変だと思った。 力を緩めたつもりもない手の拘束を解いて、彼は軽い口調で悪い悪いと片手を上げて歩き去ろうとする。 名前を知っているということは同じ大学の学生で、同じ学科の、つまり同じクラスメイトで。混乱して同じという言葉ばかりを繰り替えす頭が、彼に伝えるべき言葉を忘れていく。 「んなとこで座り込んでんじゃねーよ!じゃーな」 手をぶんぶんと振る姿はまさしく中学生のそれで、血を垂らしているのにニッカと笑う顔は太陽みたいで、彼が緑色の桜並木の向こうに消えても、海斗はじっと動けないでいた。 足元に転がったヘルメットを、子猫がカリカリとひっかく。 「血が…………」 彼の血で染まった指先が、春の風で乾いていく。 追いかけられなかった足元を、ころころとヘルメットが転がっていった。
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