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ある朝
第1話 春
「……んん〜……」
背中や腰の痛みに魘されて、漂ってくる香りに史隆は目を開いた。両腕を天井に向かって突き上げて、腹筋だけで身を起こす。
「メシ!」
ズボンと下着を履いてベッドを抜け出し、向かうは台所。六畳一間の部屋はとても狭く、料理を作っている背中はすぐそこに見えていた。広くて筋骨隆々の、逞しい背中。
「コータさんの飯ー!」
「オハヨ寝坊助さん。起きたのね」
「ヘヘ」
短髪に両耳ピアス、分厚い縁あり眼鏡に、彫りの深い顔立ち。肌は全体的に黒めで、見事な逆三角スタイルは史隆の憧れだ。
妻夫木浩太、二十四歳。人前では強面の兄貴といった態度だが、史隆のように昔馴染みや理解のある友人の前ではこうやって己を晒して対応する。彼自身は両刀だが、自分の見た目に合った口調がどうしても好きになれず、行き着いた先がオネェ口調。最初こそ史隆も驚いたりからかうこともあったが、拳二つを顔面に受けてからそうすることはなくなった。
なにより、彼は賢く、強かった。
最初の出会いは史隆が喧嘩に負けて骨を折られそうになった時。助けてもらって、怒られて、見た目に合わない綺麗でうまい料理をご馳走されて、そのまま堕ちた。絆されたともいう。
浩太に出会ったことより、史隆は自分の内面を見つめることを覚え、冷静になった。バカをやって毎日遊び暮らすのではなく、少し先の未来を見通して暮らすことを覚えた。
中学から高校にかけて、史隆は浩太の後をついて回った。懐いたのだ。
「ふー……」
顔を洗い、使い古されたタオルで水気を取る。鏡に写った自分の上半身を、少しの間眺めた。
伸ばしたままの髪は項を隠すほどまでになり、首筋には噛み跡、鎖骨と肩は筋の張りが見えて男らしいが、まだどこか丸みがある。胸板は薄いが、腹筋は鍛え続けているから割れ目が薄っすらと出来て、厚みがあった。
「……なっかなかつかねえもんだな……」
「まーた筋肉の話?」
食卓に皿を並べ終わったらしい。エプロンを畳みながら浩太が史隆の背後に立つ。
「アンタの身体はそのくらいが一番よ、フミ」
「うわっ」
脇から通された腕が腰に回り、背中に口付けられる。
「ヤメロ、そんな気分じゃねえ」
「はいはい。朝ご飯食べましょ」
名残惜しさも何もなく、浩太は史隆から離れる。髪を結んで前髪をあげ、簡単に見た目を整えてから、史隆も彼の後に続いた。
ーー結局、史隆は浩太とルームシェアという形で衣食住を共有し、浩太が卒業した学部に史隆が入学して教科書はそのまま引き継ぎ、事なきを得た。あとは日頃の食費や交際費やらをバイトで稼げばなんとかなった。
昼は学生、夜はバイト。たまに遊んで、課題をやって。そんな、絵に描いたような大学生活が始まった。
はずだった。
最初の数ヶ月こそ真面目にバイトをしていたものの、元々の育ちや本人の気質もあって、史隆のバイト生活は長続きしなかった。けれど、わざわざ大学まで導いてくれた浩太にそれを言い出せるはずもなく、いつの間にか母親のように誰かと身体を交えることで金を稼ぐようになっていった。週に三回、適当な男か女を引っ掛けて、抱くだけ。内容によって金額に差はあったが、それでもまずまずの収入を得ることができて、味を占めた。
そして、だらだらと小銭稼ぎを続けて一年も経つ頃、浩太に知られた。
『アンタが社会人になるまで面倒みるから、それだけはやめて。……お願いだから』
相手の男を締め上げて、史隆を抱え上げて自宅に帰るや、彼は切羽詰まった声でそう言った。強く強く、息苦しいと感じてもおかしくないほどに強く抱きすくめられて、史隆はただ頷くしか出来なかった。まるで恋人のようだと、その時は思った。
「いっただきまーす」
そして、今に至る。
「はいどうぞ」
「浩太さん、今日は出張だっけ?」
「そう。静岡まで学会でね」
「院生?って大変だな」
「真面目に仕事するのとどっちがいいかは微妙なところよ」
ふーん、と相槌を打ちながら綺麗な卵焼きを口に入れる。甘さの欠片もないだし巻き卵。厚みと味がしっかりついたそれは、史隆お気に入りの一品だ。
「ご飯は冷凍してるし、おかずも残しておくから、ちゃんと食べなさいよ」
「へーい。課題残ってっから、それやるよ。分かんねーけど」
「あの子いるじゃない、あの子」
「どれ?」
「あの、うるさいのダメな子」
「あー、尊な」
「そ。尊に見てもらいなさい。馬鹿じゃないんだから、真面目にやるのよ」
「へいへい」
ご飯の味が不味くならない程度に小言を聞く。まるで母親みたいだと史隆は思うのだが、浩太がいつも悲しそうな顔をするので黙っている。
彼との身体の関係について、史隆は何とも思わず、強いて言えばセックスフレンドかなと考えているが、浩太に直接それを言ったことはない。なんとなく、言ってはならない気がしている。
片付けはいつも史隆がしていて、その間に浩太は出かける準備をする。そうして二人のすべきことが終わると、ちょうどいい時間になるのだ。
「じゃあ、行ってくるわね」
「気をつけてな」
彼は史隆よりも少し上背だが、史隆が踵を上げねばならぬほど背が高いというわけでもない。浩太が屈んで、史隆が上を向けば、キスなど簡単にできた。
「……じゃあね」
ぽん、と頭を撫でて、浩太は部屋を出る。キスまでして置いて名残惜しさを見せないのは、彼なりの見栄なのかもしれない。
(……なんてな)
優しさに漬け込みすぎて、今更何かに気付いて動くことなど、史隆には出来そうもない。
「さー、俺もガッコ行くか」
背伸びをして、服を探す。
点けたテレビはちょうど天気予報を映してくれて、春の訪れらしい数値を並べて見せてくれた。
大学に入って、二度目の春。
ある朝の話。
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