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講義室にて
桜も花が散り、道路からもその色が消えて無くなる頃にもなると、社会は初夏に向けて生き生きとしていた。
通りを過ぎる車が穏やかな音を立てて風を切り、アスファルトの上に溢れた小石を潰していく。
青信号になったところでグリップを回す。入学祝いと免許取得祝いにもらったクルーザーはそこそこ良いもので、これまでの人生を振り返るに、2年もこうして運転し続けられていることが不思議だった。大抵、こういう値の張るものは、盗まれるものだと思っていた。
一時停止線で止まり、左右確認。角を曲がって裏門から駐輪場まで走らせる。
一学年で三千人近く抱える私立大学の割に、人気は少ない。真面目に学校に通う若者が、そもそもとして少ないのかもしれない。海斗にはわからない何かが、彼らの目を惹き付けているのだろうと最近は思うようになった。
空いているバイク置き場にクルーザーを止めて、ハンドルロック。鍵を外し、ナップサックから取り出したアームロックをかけて、ようやくヘルメットを取った。
小学生の頃から変わらない黒髪が、ぺたりと首筋に張り付く。
(……だいぶ、暑くなってきた、な)
講義用の眼鏡に掛け直すついでに、ハンドタオルで汗を拭いた。
キーンコーンカーンコーン、と録音された鐘の音が鳴り響く。
「あ、あ、……い、い、いかなきゃ」
19年付き合ってきた吃音は、独り言も逃さない。呟く前に動けばよかったと思いながらも、海斗は小走りで校舎に向かった。
勉強は、嫌いではなかった。
公式は一つの道具で、それが成り立つ意味さえ理解していれば、自由に使うことができる。
理科は誰かが考えた世界の上に様々な方式や発見が付け足されて葉を増やしていく若木のようだったし、国語はありもしない空想に思いを馳せる教授の熱意が面白い。
社会は水のように流動的で、けれどそれを作ってきたのが人間だということが、不思議で興味深い。
大学のレポートは大抵がワード式のメール式で、誰かがまとめて提出したり先生に各自で提出したりする必要もなく、しゃべる必要のない環境が楽だった。
「はい」
「あ、あ、あり、ありが」
「次に回して」
前列に座っていた女の子からカードリーダーを回されて、お礼を言い終える前に後頭部を向けられる。
学生証を取り出して、ピ、と音を鳴らす。「はい」という前に横から伸びてきた手がカードリーダーを奪っていった。
乱暴な動作に見えるかもしれないけれど、彼は真面目な学生だ。顔立ちは強面そのもので、いつも海斗の掌くらい分厚いヘッドホンをしている。頭頂部だけモヒカンみたく髪を天に向かって跳ねさせ、周囲はワックスかなにかで乱雑に後頭部のほうへ流す髪型と、耳に空いたピアスが不良っぽいだけで、ノートにはぎっしりと先生の話した内容が書き込まれている。
「……なに?」
海斗はもうTシャツにパーカーで十分なのに、彼はまだダウンベストを着ている。
暑くないのかなあ、と思ったところで話しかけられたのだと耳が理解した。
「え、あ、ええ、と」
「井坂って、字綺麗に書くな」
ヘッドホンをしまま、彼は言葉を続ける。騒ぎながら講義室を出て行く学生たちの背中から、隣の彼に視線を向けた。
テキパキとリュックに教科書とルーズリーフを片付けている彼の横顔を、凝視した。いつの間に、サングラスをかけたのだろう。
「え……?」
彼が立ち上がると、ガタンと音を立てて椅子が畳まれる。旧式の講義机はギイギイ音を立てるけれど、現役で若者たちの尻を支えてくれていた。
最後列の席は講義中も寝れるからと人気で、人の集まりが早い分、講義が終わると一番に空になる。
「俺の名前、永瀬尊だから」
ざわめきが遠のいた一瞬に、名乗られる。
同じように名乗ろうとして、先ほど名前を呼ばれていたことを思い出した。
「な、なが、なが、せ……永瀬、くん」
「俺さ、来週からバイトが入りそうで。たまにノート見せて欲しいんだけど、いい?」
「あ、う、う、うん」
「さんきゅ。じゃあな」
眼鏡の向こうで、無表情に尊が手を振る。頷いてから彼の背中に手を振ると、コロンと持っていた鉛筆が床に落ちた。
慌てて拾おうとして、机に額をぶつける。痛みに悶えながらも鉛筆を拾い上げたところで、入り口前に立っていた尊と目があった。
「あとこれ、ヘッドホンじゃねえから。聞こえてる」
じっと見ていたことに気付かれていたのだと、顔にさっと熱が集まった。
ごめん、と言おうとして立ち上がった時には、もう尊は廊下を歩き出している。
追いかけようとした手をおとなしく身体の横に戻して、海斗は安い筆箱をぐしゃりと握りつぶした。
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