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「あーたらしい世界♪あーたらしい世界♪楽園を目指せー♪」
白い布地の真ん中に真っ赤なりんごが染め抜かれた旗。この会場にいる数百人全員が声高らかに歌う。姿勢を正してりんごの旗を真っ直ぐ見つめて直立不動で歌う。
りんご教の式典ではどんなに音痴でも口パクは許されない。ちゃんと歌っているか会員同士が相互監視をしている。病気などの事情で立ち上がれない者、歌えない者にはりんごの小旗が手渡され、その小旗を降ることで信仰の証を示すことになっている。手を動かせない難病や障がいがある人の隣には付添人がつき、付添人が小旗を降る決まりだ。
大変な所に付き合わされてしまった。東田は友人の勧誘を断ればよかったと後悔し始めていた。歌詞カードを見ながら友人の顔を立てるために歌いつつ、はっきり断れない自分の性格を恨んだ。もう二度と関わりたくない。そう思いながらも式典が終わるまで我慢した。
りんご教に誘った友人と縁を切り、勉学、アルバイトに打ち込んだ。他の友人達はりんご教に誘った友人を忌み嫌い遠ざけた。巻き込まれた東田の味方をしてくれた。
大学生だった東田が狂信的なりんご教から逃げ出した十数年後、彼は公立高校の教員になっていた。小うるさい保護者の対応に苦慮しつつも、先輩教員から謙虚に学び、生徒達との向き合い方も自分なりのスタンスを確立していった。
東田の先輩磯壁先生が卒業式で面倒事を起こした。卒業式の国家斉唱で不起立、口を真一文字に結び歌わなかったのだ。その場では無視された先輩の行為は卒業式の後に大問題になった。先輩は何かしらの懲戒処分が下されるらしい。訓告、悪ければ減給か。
30代の東田は50代の先輩の暑苦しい政治的主張や思想に興味がなかった。東田は保守にしろリベラルにしろ、過激な主張に対して生理的に拒否反応が出てしまう。東田には教員たるもの公正中立であるべきという信念があった。
ただぼんやりと、大学時代に友人に勧誘されて断り切れずに参加したりんご教の式典を思い出した。今の学校の式典はりんご教の式典とどこが違うのだろうか。国旗の日の丸や国歌の君が代に反対するつもりはない。個人的にはこの国によく馴染んでいると思っている。下手に変えると税金がもったいないから今のままでいい。
ただ、歌えない、歌いたくない人間に歌えというのは狂信的な宗教に似ていて、背筋が寒くなる。教員に強制させれば生徒は空気を読んで追従するだろう。
教員側も不起立不斉唱を生徒にもやらせようと吹き込んだり巻き込まずに、淡々と一人でやり、生徒には歌う自由も歌わない自由もあると伝えればいいのに。
東田は生徒のいない春休みの廊下で物思いにふけっているところを、不意に教務主任から呼び止められた。
「参ったね、東田君はあの件どう思う?」
東田は卒業式の件の本音を押し殺して、
「私たちの世代は政治的主張に興味がない人間が多いので」
愛想笑いをすると教務主任は満足そうに、
「それが一番。適当にやり過ごせばいいのに余計な問題起こして。大体学校というのは秩序が乱れると取り戻すのに長い時間と労力が掛かり…」
教務主任は学校についての持論と問題を起こした磯壁先生の愚痴を一通り言うと満足そうに去っていった。東田は心に思うだけで結局何も出来なかった。遠い昔自分をりんご教に誘った友人と教務主任の後ろ姿が、一瞬だけ重なって見えた。
この国はどこへ向かうのか?
本当に自由は保障されているのか?
思っても口に出せない問いを飲み込んで、校舎の廊下の窓から見える夕日を眺めた。
太陽自体は誰も彼も区別なく光を与える存在なのに、人の都合で旗印にされて迷惑千万なのかもしれない。太陽に感情移入することで自分の中に浮かんだ疑問をごまかした。
先輩と違って日々の生活の糧を危うくするような真似は出来ない。国の行く末より我が身の安泰。東田は深いため息をついてから自嘲気味に小さく笑った。
むげに断れない性格は大学生の頃から変わらず、公正中立が信念なんて嘘っぱちじゃないか。俺はただ長い物に巻かれてびくびく様子を伺っているだけだ。りんご教だろうが、日の丸だろうが、根っこは同じ。数と権威で押されるといつの間にか流されていく。
流れ着いた先で、俺以外の誰かが戦ってくれればいい。自由を求める戦いが好きで群れてる奴らが勝手にやってくれるさ。
生活の糧を失ったり減らしたりするようなリスキーな真似が好きな奴に任せておけばいい。ヒーロー願望がある奴らなんだから。俺はちゃっかりそのおこぼれに預かれればそれでいい。でも、でも、それでいいのか…。
学校を後にした東田は、帰りにショッピングセンターの贈答品コーナーに寄って魚介類の缶詰めの詰め合わせを買った。その後学校から車で一時間離れた郵便局の夜間窓口に向かった。学校関係者になるべく見られたくないからわざわざ遠くまで来た。送り先は訓告か減給になる先輩の家。差出人は学校の住所にして、一通の手紙を同封した。
『磯壁先生のやり方を否定も肯定もしません。ただ、食生活が片寄らないか心配しています』
短い文章を筆跡がバレないように、利き手と反対の左手でペンを握って書いた。
手紙を貼り付けた保存食の小包を先輩の磯壁先生に送ることくらいしか今の東田には出来なかった。訓告ではなく減給になって食事に困るかもしれない。
これすら匿名の自己満足だ。ただ、東田は何かせずにはいられなかった。独りよがりの自己満足だとしても、磯壁先生のように表立った主張をする気がなくても、懲戒処分はあまりにも理不尽だと思っていたから。
東田が郵便局を立ち去るときに見えた赤いポスト。同じ赤でも手紙を繋ぐポストの赤はほんのり暖かい色に見えた。
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