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――俺、諏訪悠陽は隣の席にいる更科茉莉のことを何も知らない。
昼下がりの教室で、古典の藤田先生の授業を机に肘を付けながら聞いていると、ふとそんな考えが頭を過ぎった。
「長からむ 心もしらず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ――。百人一首の八十番に該当するこの和歌は、待賢門院堀河という女性が詠んだもので――……」
藤田先生は黒板に板書しながらも、和歌を流暢に詠み上げる。俺は黒板の文字をノートに書き写すと、先生の説明を余所に再び考えに耽り始めた。
改めて――、俺は隣に座っている更科さんのことを知らない。
どうして急にそんなことが頭を過ぎったのかというと、きっと古典の授業を受けていたからだ。百人一首で詠まれる和歌は、左隣にいる更科さんを連想させる。
更科さんは容姿端麗、学問優秀、気遣いも出来、清楚で、綺麗で長い黒髪をしており、小顔で長身、そして、その名前からはどこか和を感じさせ――、まさしく理想の美少女、大和撫子そのままの姿だ。
それが、このクラスにおける……いや、この学校における生徒の共通認識だ。
しかし、それ以外の情報を俺は知らない。
それもそのはずだ。更科さんはつい三週間前、始業式と同時に松城高校へ転入してきたばかりなのだ。
隣に座っている更科さんを、俺は横目で盗み見る。彼女は優等生の鑑であるように、背筋をまっすぐ伸ばして授業に励んでいた。
凛とした姿勢で前を見つめるその姿は、初めて更科さんを見たあの日と変わらない。
――そう。更科さんと初めて会った、高校生活二年目が始まった四月初日のあの日と。
あの衝撃的な出会いから、もう三週間も経ったと思うと、時の流れは凄まじいと感じざるを得ない。
この三週間で更科さんを取り巻く環境は、大きく変わっていった。
松城高校の中で一、二を争う美人として、学校中が更科さんの話題で盛り上がったのだ。
それにより噂が噂を呼んで、清楚でお淑やかで美人である彼女を一目見ようと、授業の合間時間の度に多くの人が二年三組へと足を運ぶようになった。そして、欲に従順な男子高校生は時間ギリギリまで粘り、次の授業を行なうためにやって来た先生に怒られる――それが、ここ三週間のお決まりの行事となっていた。しかも、毎回毎回同じことを繰り返すから、よく飽きないものだなと逆に感心してしまう。
ちなみに、当の本人は嫌な顔一つ見せず、いつも笑顔を絶やさずに彼らに対応している。
また、取り巻く環境が変わったのは、更科さんだけではない。彼女の隣の席にいつも座っている俺も、その余波を受けて、俺の普通で理想の高校生活を送ることが出来なくなっていた。
去年まで平穏そのもの、無難な高校生活を送っていたはずなのに、更科さんの隣の席ということだけで、何故か俺にまで注目が浴びるようになってしまった。
そして、噂に尾びれが付くようになり、俺が更科さんと付き合っているのではないかとか、更科さんの私物を物色しているんじゃないかとか、今ではとにかくあらぬ誤解が生まれている。そんなことあるわけがない。
酷い時は校舎裏に呼ばれて、更科さんについて教えろ、とせがまれたこともある。
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