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3時から
四つあるグループは順番に休憩を取る。休憩時間は90分。仮眠するべく休憩室には布団がある。汗にまみれた体をペーパーで拭いて、腰痛ベルトを外して体を緩めて、布団で体を伸ばす。
90分の仮眠時間。けれど、実際に仮眠できている時間はどれほどだろう。襖一枚隔てた先は利用者の世界。眠れない利用者、徘徊する利用者。
わたしのグループの休憩時間は最も遅い。1時半から3時。この時間帯、日によって利用者たちは全く異なる表情を見せる。
穏やかに全員寝息を立てる日。
一方で、トイレに起きたのは良いが、部屋を出たところで迷い、施設中を徘徊することになる利用者が続出する日。
「今から帰る」と、帰宅願望が真夜中になって唐突に目覚める利用者もいる。
またその逆に、いつもならナースコールをひっきりなく押し、職員の対応が気に入らなければ暴言を吐く利用者が、ぐっすりと眠り込んでいて嘘のように静かなこともある。
夜勤は運試し。
その運は、休憩時間を挟んで切り替わると、わたしは思う。
前半うまくいっても、後半なにが起きるか分からない。
あるいは、前半は波乱でも、後半になると活動的な利用者が疲れてしまい、朝食時まで眠ってしまう場合もありうる。
「はい、休憩いってきてくださーい、ゆっくりねー」
仮眠を終えた別グループの夜勤者が、まだ半分ねぼけたような顔でやってくる。みんな、夜勤者は疲れを見せないようにする。特に、こんな夜中の心細い時は。
四人いる夜勤者が一人ずつ休憩に入る、ということは、三人で見回りをしなくてはならないということ。一人分の働きを、残りみんなで埋めなくてはならない。
仮眠時間は、夜勤者たちにとって、最も暗くて長い時間。なにが起きるか予想がつかない時間。トンネルタイム。
わたしは、残る三人の夜勤者に、自分のグループの利用者の状態を報告する。
今のところ、いつも活発な誰それさんは静かに休んでおられます、とか、さっき誰それさんが起きてこられましたが今は部屋に戻られました、とか。
起き出して歩き出そうとする利用者がいる時は、転倒のリスクがあるので、特に詳しく申し送る。
今夜は、幸い伝えなくてはならないことは、あまりない。
「大丈夫だよー、ちゃんと見とくよー」
「さっきは見回りありがとー」
「ゆっくりねー」
残される三人の夜勤者たちは、みんな笑顔である。疲れのピークは、もうちょっと先、明け方からだ。今はまだ、大丈夫。
大丈夫なうちに、十分休んでおいで。
みんな、心の中で、そう思っている。わたしも他の夜勤者が休憩に入る時は、そう思う。
**
1時半から3時の休憩。
仮眠明けからすぐに、オムツ交換に入らなくてはならない。それが、この時間帯の辛いところだった。
けれど、早い時間帯に休憩に入らねばならないグループは、体が辛いと思う。夜勤は長い。仮眠があけたらノンストップだ。
だから、一番遅い休憩時間で、ラッキーだと、わたしは思っている。
四畳半の休憩室。先に休んだ夜勤者が敷いたままにしておいた布団で体を伸ばす。電気はつけたままだ。
真っ暗にしてしまうと、なんだか怖かった。休憩室にお化けが出る、という怪談を聞いてからは、特に電気を消すことができなくなった。
こうこうと明かりをつけたまま目を閉じ、横になる。携帯のアラームをセットし、絶対に時間オーバーしないようにしておく。
休憩時間をオーバーすると、自分の仕事が大幅に遅れるばかりか、他の夜勤者の負担を増やすことになる。絶対にしてはならない。
目を閉じると、さっきまで仕事をしていた内容が次々に浮かぶ。そして、休憩時間中に起きそうなことが、どんどん頭に浮かんでいく。
あの人がナースコールを鳴らすだろう、とか、あの人が無人のホールに出てきて勝手に冷蔵庫を開けるかもしれない、とか。
他の三人が見回ってくれると言っても、みんな、自分の持ち場がある。手薄になるのは仕方がなかった。
幸い、急変しそうな人はいない。
せいぜいで、オムツの便をいじってしまうくらいだろうか、トラブルがあるとしたら。
体は疲れている。けれど、頭はがんがんに冴えている。
目を閉じていると、うとうとしているのが分かる。けれど、意識はしっかり残っていて、休憩室の外の物音をひとつひとつ拾い上げている。
あ、今、ナースコールが鳴った。
あ、今、がたがたと誰かが歩行器で移動した。
夜勤の前半が静かだったせいか、今からみんな、活動的になるのかもしれない。やれやれ、仮眠明けが怖い――しっかり休まないと。
眠れなくてもいい。そうそう眠ることなんか、できない、夜勤中は。
けれど、目を閉じて布団に横になっているだけで、少なくとも体は休められる。だから、どんなに焦りが沸いても、仮眠中は布団で横になる。
ぐるぐる思考が渦巻いて、あ、あれをし忘れたかもしれない、とか、あ、あの人もしかしたら今から起きるかもしれない、とか悪いことが次々に浮かんで、休んでいる場合じゃないという気分になる。
けれど、絶対に、仮眠時間は休む。
なんでもいい、時間が長く感じようと、眠れなくて帰って辛くても、とにかく、休む。
休むことも戦い。
いつもわたしは思う。戦いに強い人なら、夜勤の仮眠時間も眠ることができるのに違いないと。
わたしにはそれができない。悔しいけれど、どうしても、夜勤中には眠ることができない。これは性分だから、どうにもならない。
せめて、わたしは布団に体を横たえて、ちくたくと心を削るようにゆっくり流れてゆく時間を堪える。そして、痛む腰や膝を休めるのだ。
3時まで。
**
誰かが言っていたことがある。
1時半から3時までの時間帯が、最も施設の中が暗く、陰気で、薄気味が悪いのだと。
「なにか、目に見えないものが動き出している気がする。真っ暗なホールの中、カーテンが破れて窓が覗いているところとか、誰かに見られているような感じがする」
うようよと、暗く生ぬるい空気の中を泳ぐような気配。
すうっと視線の隅を過る白いもの。
分かる気がする。わたしも、別のグループにいた時、もっと早い時間に休憩を取っていた。そして、その魔の時間帯を毎回経験した。
声が聞こえるような気がしたり。
背後に誰かいるように思えて振り向いたり。
その時間帯が最も嫌だというのは、職員みんな同じらしい。中には、利用者が寝ている時間帯なのに、ホールでテレビをつけ、気を紛らわす夜勤者もいる。
「人が起きてこない」と聞いたら、「だって怖いんだもん」と言われる。
最も暗闇が深い時間を、わたしは仮眠に当てる。
わたしが休憩室に籠っている間、ホールでは此の世のものではない何かが蠢いているのかもしれない。
そして、それを垣間見た他のグループの夜勤者たちが、わたしを怖がらせてはいけないと、口裏を合わせて「なにもなかったよ」と言ってくれているのかもしれない。
まあ良い。見えないものは、存在しないもの。
幽霊よりも、生きている人間が転倒してけがをしていたり、いきなり呼吸が止まっていたりすることのほうが恐ろしい。
3時になれば、また現実が始まる。それまでわたしは、体を休める。
**
3時からするべきことを頭の中で繰り返し組み立てる。
疲れた頭は記憶力が鈍い。次々に何でも忘れてしまいそうだ。
起きる。布団を片づける。他のグループの夜勤者に挨拶とお礼に回る。
「がんばろう、後半戦だね」
「あとひと踏ん張り、ここから長いよ」
「一気にいくよー」
みんな、ガッツポーズをする。
今から夜勤最後のオムツ交換が始まる。その後はバルーンの尿を取る。バイタルチェックを早めに済ます場合もある。
朝食のテーブルの支度は、できているか。エプロンは席にきちんと並べ、口腔ケアのコップもセットしておく。
コーヒー好きの利用者のために、まだ落ち着いて動くことができるうちに、コーヒーを作っておくのもひとつ。
夜明けまでの時間は、夜勤者それぞれで、違う。個人の要領の良さ悪さ、なににこだわるか、丁寧にするか乱暴にやっつけるか。
人それぞれに全く動きが異なる時間帯、だけど、必死なのはみんな同じ。
コーン。ゴングが鳴る。さあ行け、それ行け、早番の職員が来た時に「うわあ、まだこれ終わってないんだ」とがっかりさせないように。
夜勤者にとって、3時はそういう時間。
最も、気合が入る時間。
**
アラームが鳴る。
気が付いたら少しだけ眠ることができていたらしい。
人は五分仮眠できただけでも、状態が良くなると聞いたことがある。確かに眠ることができた時と、そうではない時の差は大きい。
休憩室を出ると、こっぽり深い闇がわたしを出迎える。しいんとしている。利用者はまだ、夢の中。
からからと、オムツカートの音が小さく聞こえる。
あたりに動く人影はいない。
わたしは音を頼りに、夜勤者たちを訪ね歩く。そして、休ませてもらったお礼と、休憩中の状況を教えてもらう。
がんばろう。
がんばろう。
今からだね、うん、今から。
きっと、疲れた顔に笑顔を浮かべて迎えてくれる夜勤者たち。
わたしも、笑顔でいなくてはならぬ。
ぼうっとした頭とけだるい体に喝を入れる。
自分だけ疲れた顔をするわけには、絶対に、いかぬ。
「ありがとうございました。今からですね、あともうひと踏ん張り。明日の朝は天気が悪いみたいだから、帰り気を付けましょう。早く帰りましょうね。頑張ろう、頑張ります」
仲間を探して暗い通路を歩きながら、わたしは自分の言うべきセリフを頭で組み立てる。
笑顔で、言う。ガッツポーズ付きで。
**
カーテンの外の闇は、少しずつ薄れる。
朝が近い。
早く来てほしい朝だけど、それまでに仕事を間に合わせなくてはならない。
焦りの3時。
ああ、あそこに夜勤者が一人いる。わたしを見て、にこにこしてくれている。
ありがとう、がんばろう、まだやれる、まだやれます。
「お疲れさまでーす。ありがとうございまーす」
利用者を起こさない程度に元気よく、わたしの方から声をかける。
どこからか、ナースコールの音が聞こえた。
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