0人が本棚に入れています
本棚に追加
「なんか食欲なくてねえ。君の顔を見に来ただけになっちゃたよお」
えへへ、笑う彼女が普段通り過ぎて拍子抜けする。本当に美那は、重い病を患っているのか?僕の考え過ぎか?
「今日はね、君に伝えないといけないことがあって」
「僕も美那に聞きたいことがあるんだ」
「あら、両想い」
「だったら、良かったのにね」
重たい空気が僕たちを包んでいる。僕の真剣な表情に美那も茶化すのをやめた。
「美那、君って実は――」
「私、引っ越すんだ!遠いところに」
僕の言葉を遮るように、彼女が告げた。
「だから、ここに来るのは今日が最後なの。ごめんね」
「……え?」
思いもよらぬ発言に理解が及ばない。でも、どちらにしろ結論は同じだ。美那は僕の前から消えようとしている。
「嘘、だよね?」
「残念、本当だよ」
「嫌だ、って言ったら?」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、もう決まったことだから私にはどうすることも出来ないよ」
美那が悲しそうに笑った。彼女の意思では、どうすることも出来ない決定事項。そう割り切ることは簡単だ。でも、僕の感情は嫌々と首を振る。
「本当にただの引っ越し?」
「そうだよ、それ以外に何があるの?」
「病気、じゃないの?」
「――どうして、そう思うの?」
「どうしてって……」
僕の通う高校に君と同じ名前の人がいて、その子が病気で退学になったから。君がその子かと不安になって、居ても経ってもいられなくなった――って、言えたら楽なのに。
「違うよ。本当にただの引っ越しだよ」
美那は僕を安心させるように、柔らかく微笑んだ。
「確かに、元々身体は強くはないけど、今すぐいなくなっちゃうほど悪くはないよ。親の仕事の関係で引っ越しだよ」
「本当に?」
「そうだよ。紛らわしくて、ごめんね」
いつからだろう。暑くもないのに、美那の頬を伝う滴が留まらなくなったのは。
いつからだろう。呼吸が浅く、小刻みになったのは。優しく、柔らかく、且つ苦しく笑うようになったのは。いつからだったろう。
「本当なんだね」
「うん。本当だよ」
私の嘘を信じて欲しい。そんな響きを含んでいる、ような気がした。だから、僕は。
「うん、信じるよ」
信じることにした。彼女のついた甘く残酷な嘘を。
「いやあ、残念だなあ。もう君に会えないなんて」
美那の姿は儚く、触れば消えてしまう幽霊のように僕には見えた。
「実はね、私ね、甘いものを食べるのに適してたから此処に来てたけど、君に出会ってからはね、君に会うことを目的に此処に通ってたんだよ」
――僕もだよ。
「本当はね、私スイーツよりも君の方が――なんて、もう遅いね」
――そうだね、遅いね。もうどうすることも出来ないんだから。
「ありがとう。私と出会ってくれて」
――僕の方こそ、ありがとう。
「君のこと、絶対に忘れない」
――僕だって、忘れない。忘れられない。だって、頭に固着して離れないんだから。
一瞬の出来事だった。柔らかい感触が唇に触れて、気付いたら僕のもとを去る彼女の後姿が見えた。僕はそれに手を伸ばし――下ろした。名前を呼べば、追いかければ、引き留めることは出来たのに、しなかった。繋ぎとめたところで、僕達の未来は変えられないし、僕の胸を締め付ける痛みは改善されないから。
初めては、塩辛い涙の味がした。
最初のコメントを投稿しよう!