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前略、先生。お元気ですか。
自分で言うのもなんですが、僕は不幸体質です。在学中は何度もご相談したので覚えておいでだと思います。
僕は本当にツイていません。学生の頃から財布は落とす、定期はなくすなんてしょっちゅうで、デートの最中に犬に足を噛まれるわ、しゃがんだ拍子に彼女の顔前でズボンが裂けるわで、信じられない不運ばかり。ついこないだなんて、勤め先の会社が潰れました。笑っちゃうくらいツイてません。
まぎれもなく不幸です。泣けてきます。しかしながら、人生最大の不幸の前では、ほんの些細なことでしかないのだと先日学びました。
先生。人間が陥る最大の不幸とはなにかを、ここにご報告いたします。
無理を言い、深夜に開けてもらった夜景を見渡せる高層ビル。中に立地するリッチなフレンチレストラン。テーブルにズラリとならぶ豪華なディナー。そして、洒落たソムリエが注ぐワイン……。注がれたバラのように赤いワインを飲み干して、僕は言いました。
「好きです」
「迷惑だわ」
先生、ご存じですか。人生最大の不幸。それはつまり、こういうことです。
公の場であるにもかかわらず、僕はワッとテーブルに泣き伏してしまいました。
「ねえ! これで三十三回目だよッ?」
「なにが?」
「こんなにもキミを愛している。なのに君はなぜ、たったひとこと、愛してるって言えないんだいッ?」
「だから言ってるでしょ。私はそうじゃないって」
「じゃあ、どうして誘った食事には来るのさッ?」
「来ないと死んでやるって泣きわめくから」
そういうと、彼女はこともなげにワインをクイッと飲み干すのでした。
ひどいっ。ひどすぎる! 僕はこんなにも彼女を想っている。なのに彼女はそうじゃない。このツラさ、ズルさ。どうして僕だけこんな目に。お分かりになりますか、先生。
そう。人間最大の不幸とは、恋を知ることです。
ああ、先生。片思いとは大変に苦しいものですね。さまざまな文学作品の題材にもなっているとおり、溺れるようにつらく、また、刺し貫かれるかのように痛く、苦しい。
先生。ご存じのとおり、残念ながら僕は凡人です。自らの弱さに克てなかった。想いの届かぬ苦しみに堪えかねて、ついに薬に手を出してしまいました。
そう、ドーピングです。
結果欲しさにドーピングに手を染めるアスリートがいると聞きますが、気持ちが痛いほどよくわかりました。我々は弱い。たとえまやかしであろうとも、一瞬だけでもいいから報われたいと願う生き物なのです。
計画はこうでした。
ほどよく酔いがまわってきた頃合いを見計らい、目を盗んでグラスにホレ薬を入れすばやくかき混ぜる。実にシンプルです。そしてうまくいきました。薬を入れるまでは。
「ハイどうぞ」
グラスを差し出すと、彼女は酔いで火照った顔して言いました。
「ほんとにこっちが私のグラス?」
「うんそうだよ間違いないよ」
「ほんとにほんと? 酔っぱらってるから、わからないの」
言われて自信がなくなってしまいました。じつは僕もけっこう酔っていたのです。そういえばどっちだったっけ。冷や汗がふきでます。
「……やばい。わからなくなってしまった」
「なにか言った?」
「ウウン! なんでもない! 乾杯!」
なんて言いつつ、あのとき内心大パニックであったことをここに白状しておきます。
ええい、どうにでもなれ! と、クチをつけた瞬間、僕は笑いました。
「なに? どうしたの?」
言えるワケありません。彼女に仕込むつもりだったホレ薬を、ウッカリ自分で飲んじゃっただなんて。
かくして僕は自らに恋のドーピングを行い、片思いをさらにエスカレートさせてしまったのです。
じつは昔から疑問でした。片思いしている人間が、さらにホレ薬を飲むとどうなるか。
まず脂汗が噴き出ます。胸の動悸がひどくなります。めまいもします。目の前の人間が好きすぎて胃がムカムカ、おまけに吐き気まで。本当に、頭がどうにかなってしまいそうでした。
「ちょ、ちょっと、鏡ある?」
「あるけど」
「ハー、よかった。目はハートマークになってない」
「……ばか」
もしタイムマシンがあったなら、僕はいますぐに飛び乗って、過去の自分の頬を張り倒してやりたい。そんな思いでいっぱいでした。
しかし慌てることなかれ。こんなこともあろうかと、中和剤を用意していました。
時計を見ると三時すこし前。いま中和剤を飲めば、三時になればこの片思いが解ける計算です。しかしこのホレ薬は忌々しいほど強力でした。
「ここに一粒の錠剤がある。これはホレ薬の逆、恋の冷却剤です」
本当は中和剤です。でも気を引きたくてそういうことにしました。
「飲めばこの恋は冷める。僕はかまわない。しかし、君はいいのかい。本当に好きでなくなっても」
彼女は即答しました。
「いいわよ」
僕は笑顔で「……強がりだね」そう言うのがやっとでした。
じつは息ができなくなるほどショックでした。あのとき、椅子に座っていてよかった。立っていたら口からアワを吹いて卒倒していたでしょう。
「恋がツラいんでしょ? はやく飲んだら?」
ホレた相手には基本言いなりになるのがこの薬。元気に「ウン!」と返事しそうでおそろしい。
なおおそろしいことに、意思とはうらはらに、手が勝手に動き、全力でクチに薬を放り込もうとするのです。錠剤をもつ右手を必死に左手で抑えつつ、彼女に叫びます。
「ちょっと手伝って! 見てないでたすけてッ!」
「わかった。薬をクチに入れればいいのね?」
「ちがう! 手を抑えるほう!」
彼女は笑いをこらえているように見えました。なんてひどい。なんていじわる。まるで悪魔だ! この悪魔だいすき!
気が緩んだそのとき、右手がクチに錠剤を投げ込みました。ゴックン。
「アッ! 飲んじゃった!」
「よかったわね」
「やっばい吐き出さないと」
体面をかなぐり捨てクチに手を突っ込む僕を見て、彼女はクスクスと笑っていました。
「ハイハイ、おかしいでしょうとも。おおいに笑ってください。ああ、なんて不幸なんだ僕は」
「私はあなたと出会って、ラッキーだったわ」
えっ、と首をかしげる僕に、彼女ははじめて優しく笑いかけたのでした。
「だって、あなたと出会ってから退屈しなかったんだもの。私、人を好きになるってどういうことか、よく分からないの。あなたがそばにいると面倒で、とても迷惑だった。でも、退屈じゃなかった。ううん、楽しかったのよ。なんだかんだあったけど、このままずっと、そばにいてくれたらいいなって思ってた。ひょっとして、これが恋かしらとも考えたこともあったわ」
ことばが出ませんでした。でもそれは、中和剤のせいではなかったように思います。
彼女は僕の頬を撫でながら続けます。
「恋がよくわからない。そんな私を好きになってしまったあなたは、とてもつらい思いをしてたのよね。ごめんなさい。忘れてくれたほうが、あなたにとって幸せだと思ったの。だから、止めなかった。あら、どうしたのかしら。いやだ、涙がとまらない。どうしよう」
ボーン、ボーン、ボーン。時計が三時を知らせます。
先生。冒頭にお伝えしたことばを、覚えておいでですか。
人間最大の不幸とは、恋を知ってしまうこと。
彼女は恋を知ってしまいました。けれどこのとき、三時を回っていた。薬が効きはじめます。じっさい、僕の異様な動悸はおさまっていました。
三時を境に、僕は恋から解放される。反対に、彼女は三時から恋の不幸がはじまってしまうのです。知らなければ、いつもと変わらない三時を迎えられたはずなのに。
やはり恋は、知ってしまうとその瞬間から、不幸がはじまるものなのです。知らないほうが苦しみも少なく、相手を思い惑うこともなく、人間にとって幸せなのだと思います。
――え? それからどうなったかって?
思い出してください。僕は不幸体質。なにがどうなろうと結局、僕は不幸なのでした。
僕はおもわず泣きだしてしまいました。
「ああ、なんて不幸なんだ。やっぱり恋なんてするものじゃない!」
ベソをかく僕に彼女は問います。
「どうして? もう醒めたのでしょう?」
僕は彼女を抱きしめて言いました。
「惚れ直しちゃったんだよお!」
先生。僕はやはりツイてません。相変わらず彼女の前で犬に噛まれ、ズボンが裂けます。会社も潰れました。とっても不幸です。ついでにいうと、彼女にいつも振り回されてばかりです。
でも、手をつないでくれる彼女の笑顔を見て、不幸もまんざらでもない、最近そう思えるのです。
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