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午後三時から六時まで。まるで決められたルーティーンをこなすように、彼はいつも時間通りだ。今日も六時になると同時に席を立って、レジまで来る。
対応する僕の手をじっと見つめる瞳。
何かを考えているような強い目の力に、指が震えそうになる。
「ありがとうございました」
と僕が言うと、いつものように「ごちそうさま」と言って帰って行く。
その後ろ姿を見送ってから、自分も急いで退勤の準備をした。
僕のここでの仕事は、午後十二時から六時まで。
平日五日間は毎日出勤している。土日はいつもの席を独占することを遠慮する彼が来ないので、僕も休みにしている。
実は僕には、もう一つ仕事がある。
水曜と金曜と土曜の夜。僕は全くの別人のようにその場所へ向かう。
今日は金曜日だ。ロッカー室で急いで着替えると、駅に向かった。
十五分ほど電車に乗って、この町で一番大きな駅に着いた。
僕が改札を出て真っ直ぐ向かったのは、派手なネオンが輝いている、わかりやすい繁華街だった。
声を掛けてくるキャッチをスルーしながら、着ていたパーカーのフードをかぶった。
別に知り合いに見られても構わないのに、ここを歩く時は何故か早足になる。
交差点でちょうど青に変わった信号を小走りに渡って、細い路地に入って行った。
夜の闇に溶け込むような黒い壁の雑居ビル。
黒字に金の文字で書かれた看板を横目に、裏口へ向かった。
「STAFF ONLY」の札がかかった黒いドアを通り抜けると、やっと小さく息を吐いた。
「スミレさん、おはようございます」
「おはよう」
ロッカールームで声を掛けてきたボーイの勇気君に答えると、すぐに予約の報告をされる。
「西條様が3番テーブルでお待ちです。あと、21時からVルームで浅岡様。22時半から同じく有田様」
「了解。僕は七時からだって言ってあるのにな。西條様には僕からボトル一本付けておいて。お待たせしてすみませんって」
「はいっ」
自分のロッカーを開いて、どの衣装を着るか考える。今日のラストは有田様か。この前プレゼントしてもらったグレイのオーダースーツにしよう。靴は西條様から頂いたウィングチップで合うよな。ネクタイは…このスミレ色。
僕は急いで着替えると、鏡の前に立った。
髪にミストを掛けてから、ワックスで毛束を作る。無造作な感じにまとめてから眉を整えた。顔が白すぎるので、薄いピンクのリップクリームを唇に塗って。
片耳にピアスをしてから鏡を覗き込むと、そこに立っているのは、どこから見てもホストの「スミレ」だった。
『Club Sleep Walker』
夢遊病者とはよく言った。間違いなく僕のことだ。
自分一人が生きて行くだけなら、もうこんな仕事しなくたっていいはずなのに。
結局ふらふらと舞い戻ってきた。
「お待たせしました、西条様」
「おお、待ってたよスミレ。今日も綺麗だね」
「ありがとうございます」
そっと手を重ねて礼を言う僕に、頬を赤らめながら頷く西條様は、高校の数学教師らしい。
だけどそんなことは僕にはどうでもよくて、ただ僕の顔を舐めまわすように見つめながら「綺麗だ」と言ってくれるこの人が必要なだけだ。
大丈夫、僕は綺麗だ。
そう思うことで、僕はぎりぎり自分が生きることを許していた。
この顔で、誰かの心を癒せているのなら、まだ生きていてもいい。
それを確認するために、僕はまたこの世界に戻って来たのだから。
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