3 想い出

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僕がこの店で君と出会ったのは、本当にただの偶然だった。 この町へ帰ってきたら、最初にここへ来ようと決めていた。 本当なら一番近付いてはいけない場所だったのだけれど。 二度と戻らないと決めていたのに、やっぱり僕は忘れることなんてできなかった。 僕が帰りたいと思う場所は、世界中探してもここにしかなかったから。 何度も夢に見た。 この古い小さな洋館で過ごした日々の事を。 ここは、僕のおじいちゃんが古美術商をやっていた店だった。 入り口の重厚なドアを開けると、雑多な美術品が所狭しと並べられていた。 「イギリス人は家具が傷むからと南向きの窓を嫌うんだよ」 おじいちゃんはよくそう言って、大きな窓を鬱蒼とした庭木で覆い、照明も古いシャンデリアのほのかな灯りだけで、店内はいつも薄暗かった。 洋の東西を問わず、何世紀も前に作られた書棚やキャビネット。 テーブルと椅子は何セットあるのかわからないほどだったけれど、いつもきれいに手入れをしていて、どれも艶やかに磨きこまれていた。 おじいちゃんはその全てをキチンと把握していて、僕が「これはどこから来たの?」と聞くと「それはイギリスだよ。1920年頃のオーク材で造られたキャビネットだ。扉の彫刻が素晴らしいだろう?」とすらすらと答えてくれた。 優雅な猫足の化粧台や、ステンドクラスがはめ込まれた食器棚。その上に飾られた美しいカットグラスも全部外国から来たものばかりだった。 中には中国の陶磁器の巨大な壺や、繊細な象牙の彫刻など、アジアの美術品も扱っていた。 もちろん日本の骨董品のコーナーもあった。 飴色の車箪笥や、色鮮やかな古伊万里。特に茶器の人気は高く、外国人のお客様も多かった。この店は僕にとっては遊び場でもあったので、おじいちゃんの仕事を手伝いながら、いつもここで一緒に過ごしていた。 壁にはたくさんの絵画と古い時計が掛けられていた。 僕の一番のお気に入りは、フランス製の鳩時計だ。 それは僕が生まれる前からずっと家にあったもので、赤ちゃんの時にこの小鳥の鳴き声を聞くと僕が笑うと言って、家族で大切にしてきた。 おじいちゃんは売らないと約束してくれていたし、その鳩時計だけは手放したくなかった。 この店が人手に渡ってしまった時は、悲しくて情けなくて一晩中泣いた。 僕にはどうすることもできなくて、突然大海原にたった一人で投げ出された心細さで息も出来ないくらい苦しくて…。 この町を離れてずいぶん経ってから、あの鳩時計の事を思いだしてまた悲しくなった。 どうして置いて来てしまったんだろう。せめてあの時計だけでも持って来れば良かった。 あの鳩時計は、僕の家族の記憶そのものだったのに。 八年ぶりに石畳の道へ踏み出した時、その先に見えた光景に、僕は驚いて立ちすくんだ。 鬱蒼と茂っていた庭木が綺麗に伐採されて、レンガの壁の建物がすっかり見えている。 あの頃はなかったテラスには白いテーブルが並んでいて、女性たちが楽しそうにお茶を飲んでいる。 重厚なドアの横に掛けられたプレートの文字は 「Café Pendule a coucou」。 僕はこの言葉を知っていた。 フランス語で「鳩時計」だ。 カフェ?ここがカフェになったのか? そっとドアを開けると、白いシャツに黒いエプロンをした店員が「いらっしゃいませ」と頭を下げた。 「あ、一人です」 と言いながら辺りを見回すと、正面にあるカウンターの奥の壁に、あの鳩時計を見つけた。 テーブル席に案内されそうになって、慌てて「カウンターでいいです」と断り、六脚並んだ椅子の一番端に座った。 そこから、思う存分時計を眺めた。 ここに、いたんだね。 僕はまるでタイムスリップでもしたかのように、ここで過ごした時間に想いを馳せた。 その時、ちょうど三時になった。 『カチッ ボーンボーンボーン』『クック―・クック―・クック―』 あの、懐かしい音。 僕は無意識に口に手を当てて、その小さな小鳥が巣箱から出てくる所を見つめていた。 まるで「おかえり」って言ってくれているみたいだと思った。 涙ぐみそうになっていると、背後のドアが開き、カウベルの音が響いた。 反射的に振り返った時。 そこにいたのは、君だった。 僕が会いたくて会いたくて、せめて一目でもいいから姿を見たくて。 この町へ戻ってきたもうひとつの理由。 八年も経っているのに、僕にはすぐにわかった。 大人になった君が、そこにいた。
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