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午前3時、肉が食べたい青年と少女の話
午前3時、お腹が鳴る音で目が覚める。
眠気眼をこすりながら、ああ、今日は『あの日』なのかと直感し、憂鬱な気分が広がっていく。
「ああ、肉、肉が食べたい」
人は肉を食べる生き物だ。
自分が生きるために、同じく生きているものを殺して、食料として調理する。
それが本当に必要なのか、必要でないのか、倫理観はもはや崩壊し、肉は当たり前のように俺達の目の前に転がっている。
必要もないのに、殺して、裂いて、焼いて、蒸して、味付けして、美味しくいただく。
それが当たり前なのだ。
誰だって子供の頃から、そうやって過ごしている。
人という種族が至った進化の形……。
だから、これは本能でしかなく、逃れることは出来ない。
柔らかな、触感。
ぶちりと、噛みごたえのある感触。
溢れ出る肉汁と旨み。
焼いてもいい、蒸してもいい、調理方法は様々で、飽きることは永遠にない。
子供の頃から色々な種類の肉を食べてきた。
その中で、一番の好物になったその肉が……。
食べてはいけない生物の肉だと知ったのは、俺がちょうど高校を卒業するころだった。
◇
「いらっしゃいませー」
午前3時を回った頃、自宅のアパートから徒歩数分の24時間営業のラーメン屋に入る。
繁華街の端の路地裏に位置する薄汚い店。
馬鹿にするわけではないが、飲食店というのはどんな店にもそれなりの役割というのがあると思うのだ。
しかるに、この店にこそ相応しい客も、ついでにそこで働いているバイトの態度も、たかが知れているだが、それが逆に気持ちよかったりもする。
「餃定、麺硬め。あ、それと肉抜き」
ぶっきらぼうにオーダーだけを端的に伝え、店に置いてある新聞を手にとりさっさと椅子に腰掛けた。
「店長、餃定一丁、メンカタ肉抜きで」
もはやバイト店員が必要かどうかさえ疑いたくなる。
わざわざ店長に伝えなくても、この狭い店内だ。俺の声が聞こえないはずはない。
いわゆるワンオペにしていないのは、強盗などの犯罪に備えてのことか……。
手にとった新聞の方に目を落とせば、今日も今日とて、見たくもない文字の羅列が並んでいた。
更生に失敗した少年の凶悪犯罪や、老人による交通事故、遺伝子組み換え技術の悪用やら、有名企業の研究施設で爆発騒ぎだのと、騒がしい見出しが目に映る。
最近犯罪率が上がってるだの、交通事故や殺人事件の件数が異常だの、毎年聞いているような言葉が書かれた紙面を流し読むようにめくっていく。
「へい、おまち」
一通りの情報収集が終わった頃に、速さが売りの料理が運ばれてきた。
特徴がないのが特徴といわんばかりのラーメンに、餃子とライスの3点セット。
それを対して味わいもせずに一気に胃に流し込み始めた。
空っぽの胃の中に、身体を動かすための燃料が注がれていく。
けれど、俺の中の欲求は消えることなく、肉を求め続けていた。
「勘定、ここ置いとくから」
やがて、料理をすべて胃に収めると、料理の代金ピッタリの金額をテーブルに置き、席をたった。
店の外に出ると、肌寒い風が首筋を撫でるように吹いている。
6月の上旬、日中はかなり暖かくなったのに、午前3時ともなると肌寒い。
この生活にも、それなりに慣れてきたと思っているが、どうしても我慢ができないほどの欲求がやってくることがあった。
衝動が抑えられなくなるタイミングは決まっていない。
前回は一週間ほど前だったし、たしかその前は一ヶ月ほど前だった気がする。
たまにバイトで最低限のお金を稼ぎながら、日々生きるために、暮らす毎日。
父親は、高校卒業と同時にどこかへと逃げていった。今はどこで何をしているやらという感じだった。
「まあ、あの人はあの人で、頑張って生きてるでしょ」
他人事のように呟きながら、最近買った電子タバコを口に加える。
深夜3時を少し回った頃、まだ陽は登らず、辺りは薄暗い。
人の気配はほとんどなくて、たまに新聞配達のバイクの音が響く程度。
そこでふと、路地裏の薄暗い外灯の下で、ありえないものが見えた気がした。
こんな時間に、本来あるはずのない、小さな人影が見えたのだ。
ふらふらと誘い込まれるように、その人影へと近づいていく。
「おなか、おなかが、へった……。へったのに……食事が……こない。どうやって、何を食べよう……」
外灯に向かい、虚ろな瞳で呟く少女がいた。
色素の薄い髪を垂らした、色白の少女。
シンプルすぎる質素な白のワンピース姿も合わさり、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出している。
年頃は、10歳かそこらといったところだろう。
「おなか、減ってるのか?」
「…………」
話しかけてみると、少女は口を閉ざしたまま、ぎょっとこちらを凝視してきた。
「君、名前は……」
「……ニク。そう呼ばれてた」
少し考える素振りをした後、か細い声で自分の名前をつぶやく少女に何を思ったのか。
俺は手を差し出し、少女に語りかけた。
「今から飯なんだ。一緒にくるか」
「……うん」
少女は頷き、俺の方へ小走りに近づいてきた。
食事をまともに取らせてもらってない家庭の子供か、はたまた、夜勤の両親持ちで生活リズムがおかしくなってしまった子供か……。何にしろ、ろくな話ではないのだろう。
けれど、そんな少女の小さな手を取り、俺は街中を離れ、山に向かって歩き始めた。
◇
高校を卒業した頃、俺は父方の祖父の家に引き取られた。
理由は単純で、父親が逃亡し、俺は真っ当な生活を送っていないと、祖父の耳に入ったからだ。
祖父は、猟師を生業にした、古臭い人だった。祖母は早くに亡くなってしまったようだが、律儀に先祖代々の土地である山を守りながら、自給自足に近い生活を送っていて、その生活を俺にも教えてくれた。
そして、亡くなったのが今から1年ほど前。
一緒に暮らしたのは高校を卒業してからの3年ほどだったが、爺さんの教えは今でも俺の中に生きている。
立て付けの悪い戸を開けて、山の麓に建てられた小さな小屋の中に入っていく。
俺の後ろを律儀に着いてきた少女は、20分ほど歩き続けたというのに、文句も言わず、とくに疲れた様子もなく無表情のままだった。
「ほら、ここ座れ。今から用意するから」
リビングに通し、テーブルの横の椅子に座るように指示を出し、俺は山小屋の倉庫へと向かった。
そこには、色々な肉が並んでいた。
山に生息する、鳥や獣。爺さんが生きていたころに、一度大物の熊を他所で狩ってきたとかで、倉庫の入り口には熊の毛皮が吊るされていた。
ブロック状に小分けされた肉や、薄切りにスライスされた肉。
天井から無造作に吊るされたそれらは、すでに干し肉としてある程度の下処理がされている。
その中の、確かイノシシだったかの肉を手に取り、重さを確かめる。
「結構あるな……。まあ今日はこれで、がっつり行きますか」
1kg近い肉を調理する事に決めて、キッチンへと移動する。
戻ってみると、少女は行儀よくというか、何を考えているのか得体の知れない表情のまま、椅子に座り、窓の外をじっと見ていた。
「待ってろ、もう少しで肉、食わしてやるから」
爺さんに教わって、狩猟免許をとって、自分で狩ったイノシシだったと思う。
その肉を手に取ると、初めて狩った獲物を見せた時の爺さんの顔が思い出された。
それと同時に、喉の奥から唾液が溢れて止まらない、どうしようもない衝動が湧き上がってきた。
ゆっくりと深呼吸をし、呼吸を落ち着かせる。
これは食べてもいい肉だと、自分に言い聞かせ、キッチンの脇の包丁を手に取る。
爺さんほど、狩猟にまみれた生活に勤しむ根性は俺にはなかったが、この場所は本当に助かっている。
アパートを借りて、フリーターのような生活をしながら、たまにどうしようもない衝動を抑えるために、俺はここにやってくる。
狩猟をして、その肉をすぐにさばいて食べるようなこともあるが、今日は腹をすかした子供もいることだし、さっさとすましてしまうことにしよう。
干し肉にナイフを入れながら、フライパンを火にかける。
やがて、切り出した肉を乗せて焼くと、なんとも言えない美味しそうな臭いが室内へと広がっていった。
◇
「ほれ、猪肉のソテーと、付け合せは庭でとれたじゃがいもだ」
「いのしし?」
少女は不思議そうな顔をしながら、皿にもられた猪肉を眺めている。
フォークを渡して、食べるように促してやると、やがて恐る恐るという感じで肉を口に運び始めた。
「おいしい」
「そりゃよかった」
子供用にしては、少し硬いかもしれないが、味は豚肉に近く、臭み対策の処理も抜かりはない、干し肉の熟成された旨味を十分に味わえることだろう。
少女が口をつけたのを確認してから、早速俺も肉にフォークを突き刺した。そして、内から湧き上がる衝動を抑えるように、肉をひたすらに貪っていく。
硬めの食感や、噛めば噛むほど広がっていく旨味は、きっと子供の頃に食べた『アレ』とは違うのだろうが、今の俺にはこれで十分だった。
一心不乱に肉を食べ勧めていると、ふと少女が口を開いた。
「でも、食べるんだ。猪」
「まあ、あんまり食べるもんでもないけどな。普通はスーパーに売ってる、牛や豚や鳥だろうから。けど、こういうのも悪くないだろ。自分で狩った獲物や、その獲物を育ててくれた自然に感謝しながら食べる食事ってのもさ」
最初は、代用品として、スーパーで売ってるような普通の肉も試してみた。
けれど、効果はなかった。
色々と試した結果、どうやら『自分で狩った動物の肉』であることが俺の衝動を止めるための条件だとわかった。
今ではこうやって、年頃の獲物と言える少女が眼の前にいたとしても取り乱すことはなかった。
「そっか、動物って、殺すだけだと思ってた」
少女はなにやら腑に落ちたような顔で、だらしなく無邪気に笑っている。
初めて、少女の感情に変化が見て取れたような気がした。
「だったら、人間も食べるの?」
「……食べないよ、食べちゃいけない。だから変わりに、俺は山に来てるんだ」
これは本来の欲求を、別の何かで満たすための行為なのかもしれない。
あくまで幼い頃に味わった感触を忘れるため、代わりに動物を狩り、食しているだけなのかもしれない。
それでも、いいじゃないかと、吹っ切れた今では思う。
人間は、人間の秩序の中で生きていく必要があるのだと、今では心からそう思えた。
「なんで、美味しいかもしれないじゃん」
だというのに、少女から返ってきた言葉はひどく無邪気で残酷なものだった。
少女がこちらを見ていた。
その瞳は瞳孔が開ききっていて、先程までの年相応の無邪気な姿はどこにもない。
得体の知れない恐怖が俺の中に広がっていく。
コトンと、フォークが床に落ちた。
先程まで俺が掴んでいたはずのものだ。
身体の自由が効かず、徐々に足や腕の感覚が失われ、自分が誰かに乗っ取られていくよう感覚に支配されていく。
やがて、俺は大きな音を立てて、床に倒れ込んでいた。
それでも、身体は動いてくれない。
痛みもなくなり、意識がぼやけてくる。
唯一、自由が効くのは、自分の視界だけだった。
地面に倒れながら、テーブルの下から少女の方をみる。
足に巻かれたバンドのようなものには、薄っすらと、『29』と書かれているように見えた。
「わたしは、29番目のモルモットだった。だから、自由になっても特に目的なんてなかった」
少女が立ち上がり、こちらに近づいてくる。
「だけど、ありがとう。お肉美味しかったから、わたしはお肉を食べるために生きようと思う」
無邪気に悪いながら、スキップをするような軽やかな足取りで、少女は俺の耳元に顔を寄せる。
「ありがとう、感謝して食べるね」
そして、ぐしゃりと音を立て、何かが破裂して、壊れていくのがわかった。
赤く染まっていく視界の中、俺が意識を失う直前に少女の表情が見えた。
見覚えのある表情だった。
それは、もしかすると俺が初めて『アレ』の肉を親父から食べさせられた時の表情だったのかもしれない。
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