優しい夜

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 時刻は夜中の3時を回ろうとしていた。  デスクに座りパソコンでインターネットサーフィンをする裕也とベッドの上でゴロゴロしながらスマホのゲームをしている咲菜。  いい加減寝ようかと思い始めていた二人の肌を冷やりとした風が撫でつけ、積もりかけた眠気をさらっていく。  6月といえどもこの時間帯はまだまだ涼しく、半袖一枚では少し寒いぐらいだ。  咲菜がやおらベッドから起き上がり、部屋の隅に脱ぎ捨てられていたジャージのズボンと薄手のパーカーを着始める。  咲菜が着替え終わり、ジャージのズボンにスマホ、財布、鍵、ライターを突っ込んだところで初めて、裕也は咲菜がベッドから起き上がっていることに気が付いた。  付き合い始めて3年も経つと、同じ屋根の下にいる相手の行動にも割と無頓着になっていくものだ。 「え、これからどっか行くの」  全身鏡に顔を近づけて目ヤニを払っている咲菜へ裕也が問いかける。  「コンビニ。てか全然眠くないでしょ。昼間めっちゃ寝たから」 「確かに。俺も行くよ」  歩いて5分程のところにあるコンビニで適当なお菓子と飲み物、そして咲菜用の煙草を買う。  コンビニからの帰り道、近くの川原へ寄っていこうという咲菜の提案に乗って川辺まで降り、設置された石造りの椅子へ二人で腰を下ろした。  座るなり煙草に火を付け、ゆっくりとふかした後に咲菜が言う。 「深夜に外出するのも良いね。なんだかちょっと神秘的っていうか‥‥エモいね。エモい」  大学3年の夏から付き合い始め、会社は違えども二人ともそのまま東京で就職し、社会人2年目となった。  週末となるとだいたい咲菜が裕也のアパートへ泊りに来る。  二人で過ごす夜などもはや当たり前になったが、夜中の3時にもなって外をうろつくのは初めてかもしれなかった。  涼しい初夏の風が川のドブと草の入り混じった臭いを運んできて、隣から漂う煙草の香りがそれをかき消していく。  惚れた女性の、煙草を吸いながら遠くを見つめる横顔。  その横顔に裕也はとある女性の面影を見る。  全てあの時と同じ。  時間も同じ、確か夜中の3時頃だった。  裕也は“鏡子さん”にまつわる記憶を辿った。  道路に面した戸建ての2階に裕也の部屋があった。  部屋の窓からは6メートル程の細い道を隔てて建つ2階建てのアパートが目の前に見える。  裕也の部屋の正面に位置するアパート2階の部屋からは夜中も3時が近いというのに若い男女の喧騒が鳴りやまない。  向こうのカーテン越しで詳しくは分からないが、互いの口ぶりからしてなにやら喧嘩をしているというのだけは確かなようだ。  毎日とは言わずとも、こういうのはよくあることだった。  今日は金曜日で家には自分以外いないことを良いことに、裕也は夜中遅く気が済むまでゲームをしていた。  製造業に従事する裕也の父は中国へ出張中、4つ上で高校2年になる兄はこれまた父がいないのを良いことに友達だか彼女だかの家に泊まりに行っている。  父の出張は月に1週間ほど定期的に発生する。  自分以外誰もいない家と向かいの部屋から聞こえてくる男女の喧騒、好きなだけゲームに没頭できる時間。  どれも裕也にとっての日常となっていた。  そして喧嘩をしている男女の女性の方、“鏡子さん”に対する心配もいつもと変わらず裕也の胸の一部を占めているのだった。  向かいの喧嘩が一段と激しさを増したかと思うと、勢いよくドアが開かれ、強かに閉じられる音が鳴り響く。  何事かと窓から外を見ると、ジャージのズボンに大きめの真っ白なパーカーを着た鏡子さんがアパートの階段を下りてきていた。  道路へ降り立った鏡子さんが不意にこちらを見やり、裕也と目が合う。  道路側の暗がりからは煌々と明かりを放つ裕也の部屋の中が良く見えることだろう。  小さな街頭の薄明りに照らされた鏡子さんの顔は数瞬の硬直の後、やや大げさでどこか不器用な笑顔を作り出した。  ぎこちなく会釈を返す裕也へ、鏡子さんが今度は手招きをしてみせる。  2回、3回と手招きをされ、裕也は考えるよりも先に体を動かしていた。  自分以外家には誰もいないのだが、なぜだかできるだけ物音を立てないように、いそいそと適当な着替えをして家から出ていった。 「ごめんね。起こしちゃった?」 「いえ、ゲームしてましたから、大丈夫です。‥‥何か、その、あったんですか」  先ほどまでの喧騒が嘘であったかのように静まり返った闇夜の中で、小声でやり取りをする二人。 「まぁ、いつものこと、かな」 「はは‥‥確かに結構、大変そうですよね」  さて夜中の3時にこうして二人で外に出ていったい何をしようというのだろうかと、遅れて出てきた疑問が裕也の頭に浮かびかけたところにその回答が示される。 「ちょっとコンビニ行くんだけど。裕也君付き合ってよ。深夜徘徊」  深夜徘徊という言葉が妙な魅力をたたえながら耳に入ってくる。  いやこの際、言葉の在り方云々はもはや重要ではなかった。  綺麗な鏡子さんと夜中に二人きりで居られるというそれだけで、中学1年生である裕也少年の好奇心は十二分に焚き付けられた。 「バカ彼氏におつかい頼まれたってのもあるのよねぇ。はぁ、しょうもな」  言いながら歩き出す鏡子さんへ裕也も付いていく。  裕也と鏡子さんは普段から、裕也の登下校時によく会い、挨拶やちょっとした雑談をする仲ではあった。  雑談を通して、月に1週間程度は家に裕也しかいない時期があるということも鏡子さんは知っていて、過去には裕也一人の時に夕飯のおかずを作って持ってきてくれたこともあった。 「裕也君、どのお菓子が食べたい?付き合ってくれたお礼に買ってあげる」  こんな時間にコンビニにいて店員や他の客にどう思われるのだろうかなどと不安に思いながら、一方で傍らに鏡子さんが居てくれることに変な優越感を持ちながら、お菓子コーナーで何を見るともなくたたずんでいた裕也に鏡子さんから声がかかる。 「え、っと‥‥じゃあ‥‥チョコバットで」  言いながら適当に目についた棒状のチョコ菓子を指さす裕也。 「あー。それ当たり付きのやつだ!当たった事ないんだよねーこれ。裕也君当たったことある?」 「無い‥‥ですね。確かに当たったこと無いです」 「だよね~。じゃあ当てちゃおう。当てちゃおう」  鏡子さんの白く細い手がチョコバットを4本ほど鷲掴みにして、買い物かごへ入れる。  その様を裕也はぼんやりと見ていた。  鏡子さんは他にも雑多な飲み物とお菓子、そして煙草を3つ買った。  帰り道、近くの川原へ寄り道していこうと鏡子さんが言い出し、裕也もそれに従った。  川辺に設置された石造りの椅子に二人で腰かけ、裕也はチョコバットを鏡子さんは煙草を口にくわえる。  風に乗ってまとわりついてくるちょっとドブ臭い川の臭いが鏡子さんの吹かした煙草の香りによってかき消されていく。  裕也は落ち着きなくチョコバットを3本、4本と食べていった。 「どう?当たった?」  鏡子さんに聞かれて、そういえば当たり付のお菓子だったことを思い出す。 「あ、忘れてました。暗くてよくわからないですね‥‥」  ビニール袋の中でごちゃごちゃになったチョコバットの空き袋を見て、裕也は確認するのを諦める。 「あはは。じゃあ私が帰ったら確かめておくから。当たりがあったら返すね」 「いやぁ、なんかすいません‥‥」  言いながら、裕也の視線は無意識に鏡子さんが持つ煙草に注がれていた。  その視線を感じて、鏡子さんが言う。 「あ、裕也君はチョコバットなんかよりこっちのほうが良かったのかな。ませガキだな~」 「いや、そんなこと‥‥」  ちょっとした冗談だと思った矢先、ややトーンを落とした声で鏡子さんがささやく。 「‥‥吸ってみる?」  差し出された煙草の吸い口がこちらを向いていて、鏡子さんはいたずらな笑みを浮かべている。  さっきまで煙草をくわえていた鏡子さんの唇と差し出された煙草の吸い口との間で裕也はせわしなく目を泳がせた。 「じゃ、じゃあ‥‥」  裕也は震える手で煙草へと手を伸ばす。  伸ばした手が煙草へと触れる寸前、 「ダーメっ」  煙草はひょいっと持ち上げられ、再び鏡子さんの唇へと帰っていった。 「で、ですよね~」 「にへへ‥‥裕也君かぁわいいっ」  苦笑いでごまかそうと俯いた裕也の頭を鏡子さんは笑いながら、わしゃわしゃとさすった。 「じゃ、行こっか」  言いながら立ち上がった鏡子さんに続いて、裕也も腰を上げた。    アパートの階段下で別れた直後、道路に鏡子さんの財布が落ちていることに裕也は気づく。  裕也はあわてて財布を拾い、アパートの階段を上る。  開かれたままの玄関から口喧嘩の音が漏れ出ていた。 「おっせーな。どこをほっつき歩いてたんだよ」 「はぁ?別にいいでしょ。買ってきてやったんだからほら」  そんなようなやり取りをあーだこーだと続けている内に口喧嘩はエスカレートしていき、やがてピークに達した喧騒はパシッという鋭い音と共に一瞬にして静まり返った。  裕也は突然の静寂に戸惑い、階段を上がりきったところでしばらく立ちすくしていた。  ほどなくして我に返り、恐る恐る玄関へと近づいて顔を覗かせ、中を見た。  そして眼前の光景に目を見開く。  キスをしていた。  しかしそれは裕也が知っているキスとは違う、男の方が女の唇を喰らい、まるでむしゃぶるかのようなキスだった。  しばらくして二人の唇が離れ、男が女にささやく。 「ごめん‥‥ごめんって」  そう言い終えると、また喰らう。  ただ喰われるままだった女の体が次第に男の動きに合わせてゆっくりとうごめき始める。  男を受け入れるかのように動く鏡子さんの体、頭、唇、舌、そしてその頬を伝う一筋の涙を裕也は息を殺して見つめていた。  次に男女二人の唇が離れたときに、裕也はハッとして鏡子さんの財布を玄関の中へ放り込み、アパートの階段を駆け下りていた。    自分の家に転がり込んだ裕也の全身は嫌な汗でびっしょりと濡れていた。  お風呂を沸かし、湯船に浸かった。  裕也の脳裏には先刻目にした男女の光景が焼き付いていた。  煙草の吸い口とそれをくわえた鏡子さんの唇、その唇を覆いつくす男の唇、男の舌を受け止めるようにうごめく鏡子さんの舌、それらの光景が延々と裕也の頭の中でループしていた。  湯船によって温められた裕也の体内では血が激しく廻り、特にそれは下腹部の一点に集中していく。  数分後、湯船を漂う自分の白い分身たちを眺めながら裕也は涙を流した。  滴り落ちた涙が水面を揺らし、白い分身たちもまたそれに合わせてゆらゆらと踊っていた。  次の日の朝、溜まった郵便物を取りに出た裕也は鏡子さんの彼氏と出くわした。  いつもは鏡子さんがしているゴミ出しをその日は鏡子さんの彼氏がやっていたのだ。  煙草をくわえて両手に大きなゴミ袋を持った男の背中に向けて、気づけば裕也は声をかけていた。 「あの、毎晩喧嘩している音がその、う、うるさくて‥‥うるさいのでやめてもらえませんか!」 「‥‥は?」  男が裕也へと頭だけで振り返る。  半開きになった口の端からは煙草が垂れ下がっている。  ギラリと睨みつける男の瞳を裕也は直視できずに目を逸らした。 「いや、その、うるさくて寝られないからって‥‥親がすごく気にしてて‥‥」  男は眉間に少しだけシワを寄せたが、すぐに面倒くさそうな顔をして前を向き、怠そうな足取りで歩き出して行ってしまう。 「うっせーガキ。帰ってオナニーでもして寝てろ」  うるせーそれだったら昨晩もうやったんだよボケ!という声を裕也は心の中だけで放つ。  代わりに裕也の口を衝いて出たのは率直な願いだった。 「鏡子さんの事が好きなんですよね。だったら‥‥だったらもっと仲良くしてあげてくださいよ!」  言わずにはいられなかった。  男と鏡子さんがもっと仲良くなって、喧嘩をせずに昨晩のようなキスだけをしていれば良いのにと裕也は心から願った。  男は立ち止まり、急に踵を返して裕也へ向かってくる。 「おい。お前、鏡子に何吹きこまれたんだ?」  目の前にそびえ立った男の鬼の形相を裕也は口を開けたまま、ただただ見上げるしかなかった。 「‥‥チッ。アイツ‥‥ふざけやがって」  子供相手に詰め寄っても格好が付かないと思ったのか、大きく舌打ちをした男はまた踵を返し、今度こそゴミ捨て場へと歩き去っていった。  その晩、鏡子さんと男の喧嘩はいつにも増して激しくなっていた。  よりによって今日も家には裕也しかおらず、向こうの喧騒にどう対応すればよいのか誰に相談することもできず、警察に連絡するべきか、いやさすがにそれはやり過ぎかなどと考えあぐねて、日課のゲームをしていてもまったく内容が頭に入ってこない。  ドタバタという喧騒の果て、アパートの玄関が開かれ、男の声が鳴り響く。 「二度とツラ見せんな!クソ女!」  玄関の閉まるバターンッという大きな音が聞こえる。  見れば両手にボストンバックを携えた、昨日と同じ真っ白なパーカーを着た鏡子さんがアパートの階段を下りているところだった。  道路に降り立った鏡子さんと裕也の目が合う。  一瞬だけ目を合わせると、すぐに鏡子さんは顔を逸らして歩き去ってしまう。  裕也は一目散に階段を駆け下りて玄関を開け放ち、鏡子さんの背中を追って闇夜を駆けた。 「鏡子さん!どこ行くんですか!こんな夜中に‥‥」  立ち止まった鏡子さんが振り向く。  左頬が少しばかり赤く腫れていた。 「大丈夫。近くに‥‥友達の家があるから。大丈夫。ごめんね」 「そんな‥‥僕がいけないんです。僕が今朝、彼氏さんに‥‥鏡子さんと仲良くしてあげてくださいって言ったから‥‥」  言いながら涙をぼろぼろと落とす裕也へ鏡子さんは歩み寄り、やさしく抱きしめながら頭を撫でた。 「いいの。これでよかったの。むしろ私は感謝してる。おかげであのクソ男ときっぱり別れられたんだから」  体を離し、ニコリと微笑んだ鏡子さんは最後にまた裕也の頭をわしゃわしゃとさする。 「まぁ、また落ち着いたら遊びに来るから!元気でね裕也!」  そう言ってくるりと背中を向けた鏡子さんは二、三歩進んで、不意にまた立ち止まって振り向いた。 「そういえば昨日裕也君が食べたチョコバット。あれ全部ハズレだったから!」 「‥‥へ?」 「そうそう当たんないもんよ。‥‥男も一緒‥‥なんてね!大丈夫大丈夫。じゃあね!!」  鏡子さんは早口でそうまくし立てると、今度こそ背中を向けて走り去り、交差点の角を曲がって見えなくなってしまった。  鏡子さんが出ていった男の部屋には程なくして別の女が出入りするようになったが、それでも相変わらず夜中の喧嘩は日常茶飯事だった。  最終的には、とある夜中にバタバタと荷造りをして、荷物やら家具やらをありったけ積み込んだ車でどこかへ行ってしまい、男女はそのまま戻ってこなかった。  裕也にとって、以後その部屋に新しく入ってきた人たちの記憶はかなり曖昧で、“入居者募集中”というプラスチックボードが風にはためいていた印象しか無かった。  咲菜に頭をわしゃわしゃとさすられて、裕也は鏡子さんにまつわる記憶の井戸の底から還ってきた。 「いつまでぼうっとしてんの。いい加減戻ろう?さすがにちょっと眠いかも」  座る裕也の背後で咲菜の大きなあくびが聞こえる。 煙草の香りをまとった咲菜の呼気がふわりと頭上から降りてくる。 「なぁ咲菜。この先俺たちが同棲するようになってさ、もし俺が咲菜と喧嘩したりして、もし俺が暴力まで振るったとして、咲菜が真夜中に家を飛び出したら‥‥咲菜はその後どこへ行こうとする?」  裕也の脳裏で、大きめの真っ白いパーカーを着た女性の背中が交差点の角を曲がって消えていく。 「え~なになに。怖いんですけど」 「いやだから、もしもの話だって。俺は絶対にそんなことはしないけどさ」  裕也は座ったまま振り返り、背後に立つ咲菜と目を合わせる。 「‥‥知ってる」  咲菜は微笑んでそう言った。 「あ、あぁ。ありがとう」  小っ恥ずかしくなった裕也は目をそらして話を戻す。 「それで咲菜さん。もしもの場合は?」 「う~ん。相談所だか支援センター的な所に避難するんじゃないかな。DVとか虐待とか受けてる人たちを守るための避難所が各地に結構あるらしいよ。前にテレビでやってた」  咲菜はそう言いながらスマホで何やら調べ始めた。 「そういうところに避難して、そのままその支援団体の所で働いてる人とかもいるみたい。同じ苦しみを味わってると色々と分かる事が多いんじゃない?この辺だと‥‥ここが一番近いかもね」  差し出されたスマホの画面にはとあるNPO団体の公式ホームページが映っていて、そこの各支部代表者メッセージというリンク内に記された一人の代表者名に裕也は目を止める。 「松井鏡子‥‥鏡子‥‥?」  もしやと思い、代表者メッセージのリンクをタップする。  そうして画面に映し出された代表者の顔に裕也は目を見開いた。  裕也の頭をわしゃわしゃとさすりながら微笑んだ、あの時と同じ笑顔がそこにあった。  咲菜のスマホを掴んだまま裕也はしばらくその場で固まっていた。 「おーい。大丈夫?先に戻ってるよ~」 「あぁ‥‥なんかあったらここを頼った方が良いよ。咲菜」 「はいはい。わかりましたよ~」  咲菜は裕也の手からスマホを取り上げ、川原の石段を上がり道路へ出ていく。  遅れて裕也が道路へ出ると、アパートへと続く交差点の角に咲菜の後ろ姿が見えた。  咲菜は裕也の方へ振り返り、手招きをしてみせた。                                                                     ‐完‐
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