三時のおやつ

1/1
前へ
/1ページ
次へ

三時のおやつ

 猫が話しかけてきたのは、夫の初七日の夜だった。通夜や葬式は周囲の計らいもあって無事執り行われたらしいが、過ぎてみればまったく覚えていなかった。夫が周到にも作成していたエンディングノ―トに基づいて諸々の手続きをこなしていく作業のおかげで人間の形を保てているようなもので、終わったら次は何をすればいいのかが思い浮かばない。  こんな解約届なんて今すぐ破り捨ててしまいたい。もう何もかも面倒くさい。どうでもいい。 ―まず私のご飯を出しなさい。  そう聞こえた。思わず見回したが、この部屋にいるのは一人だ。この間まで二人だったが、今は一人なのだ。気がつかなかったけれど、疲れているのか。 ―左を見なさい。  今度はもっと強い口調だった。言葉に従って頭を左へ振ると、大きな猫が。 「え」  こんな大きかったっけ。確かに、女の子で六キロ超えているのはなかなか珍しいね、でも大きな三毛もかわいいよね、ってお医者さんには驚き褒められていたけれど、それにしてもこれは、立ったら身長変わらないんじゃないか。ご飯あげすぎたか。いや。  猫は強いまなざしで射抜いてくる。顔立ちが整っているだけに、なおさら圧力がすごい。 「姐さん今喋ったの」 ―そうよ。  座ったまま座布団ごと十センチほど後ずさった。口元は動いていなかった。正面から見るとむすりと結ばれたいつもの小さな口だ。声は頭の中で直接響いた。 ―量は今までと同じでいいわ。だけどかつぶしは忘れないように。  頭から胸、胸から前足とその後ろに広がる腹や腰に目を下ろしていく。間違いなく姐さんだが、間違いなく大きい。 ―早く。  急かされて、ふらふらと立ち上がった。総合栄養食のドライフ―ド六十グラムに減塩の猫用かつぶしを振りかけて、いつもの食事の場所であるテレビ台の前に置くと、すくっと立ち上がって皿の前に座った。身をかがめて、食べかけようとしてやめる。 ―ちょっと食べにくいから高くしてくれない。  体が大きくなったから地面が遠くなったのだ。捨てようと縛っていた雑誌の束を皿の下に置くと、確認するようにじっと皿をにらみつけてから、かりかりと食べ始めた。勢いがすごい。 「姐さんあまりがっつかないでね」  そんなことわかってる、という風に横目でにらみを飛ばしてきて、また皿に顔を落とし、張り付いたかつぶしをはぶり取っていく。一分もしないうちに空になった。手を丹念に舌で掃除し、次にその手で顔を几帳面にぬぐってから顔を上げた。 ―こっち来なさい。  言われるがままに姐さんの前に正座すると、鼻をひくつかせてから、大きな熱い紙やすりのような舌で額を舐めあげ始めた。ざりざりと容赦ない。思わず顔を背けると、 ―動かないで。じっとして。  掃除はすぐ終わったが、ひりつき具合から額の赤くなっている様が想像できた。姐さんはきちんと座り直した。 ―あなた今何時だかわかる。  猫に時間を聞かれるとは、とおかしくなって、時計を見てから目を見張った。 ―そう、夜中の三時よ。そしてあなた前に寝たのいつだか覚えてる。  覚えていなかった。今日が何月何日かも、わからなかった。それに気づいたとたん、猛烈な空腹で腹がよじれた。 ―ご飯食べないと、体を壊してしまう。あなたまで倒れたら、私が困るでしょう。私を困らせたいの。  困らせたくありません。 ―そうでしょう。なら、まず体を洗いなさい。あなた、臭いから。  頬まで赤くなっているのを感じながら、風呂に入った。驚いたことに、まだ喪服を着ていた。着替えにすら気が回っていないなら、さっきまでしていた手続きの一切合切をやり直した方が良さそうだ。うわごとしか書かれていないに違いない。肌に染み入るお湯の心地よさに身震いしながら、久しぶりに自分の輪郭を確認できたような気がした。  風呂から上がると、丸机の上にはコ―ヒ―と卵焼きが湯気を上げていた。吸い込まれるように芳香の前に腰掛けると、のしのしと姐さんが現れて、左隣に丸く座った。尻の下にあるはずの座布団は、隠れてしまった。 ―食べたら寝なさい。  姐さん食事作れるの、とかコ―ヒ―入れられるのどうやって、とか聞こうと思っていたが、そんなことはどうでもよくなって、頷いた。卵焼きは甘くて、コ―ヒ―は苦くて、どちらも温かくて、とてもおいしかった。お礼を言おうと姐さんを見ると、元のサイズに戻ってこちらを見ていた。食べ終わったのを確認するようにふすりと鼻をひくつかせると立ち上がり、てしてしと寝室の方へ歩き出した。 「姐さん待って、歯磨きしたらそっち行くから。あ、布団も敷くから自分で」  姐さんに添い寝してもらうと、あっという間に意識がなくなった。目が覚めると朝の七時だった。何十時間寝たのか不安になって今日の日付を確認すると、まだ昨日から三時間ほどしかたっていなかったが、体の動きもなめらかで頭の中も澄み渡っていた。  姐さんは閉まっているカ―テンの向こうで窓辺に座り、朝日を浴びていた。カ―テンをゆっくりと開けると、まぶしそうな顔でこちらを見上げた。 「姐さんありがとう」  お礼を言うと、鼻から軽く息を吐き、また窓外へ目を戻した。  次の日も、姐さんに鼻を押されて起こされた。礼の言葉を口元でつぶやきながら目を細く開ける。ドアの向こうは明かりのともったキッチンで、食器やコップが鳴る音がかすかに聞こえる。曇りガラス越しに、何か白いものが横切るのが見えた。眼鏡をかけて身を起こす。時間は、やはり夜中の三時だった。  丸机には、クッキ―とコ―ヒ―が用意されていた。熱くて黒い液体に息を吹きかける。 ―平気? と首をかしげたので、 「大丈夫、おいしいよ」 と返した。平皿に並べられたクッキ―は分厚いし、ドライフル―ツもたくさん入っていて、嬉しい。 「ありがとうね」  姐さんは傍らで丸くなり、満足げに鼻息を漏らした。その背中に顔をうずめる。白くて長くて柔らかい猫毛とともに、パンのようなバタ―のような香ばしさが鼻腔を満たした。  顔だけでは足りなくなり、背中にまたがった。そのまま腹を触ろうと両手を伸ばしたが、横腹までも届かない。今日は一段と大きい。姐さんは、振り返りもせずに、後ろ足を置き直した。 ―今日はいつもより甘えるのね。 「そうかな」  答えてしまうとこらえきれなくなって、涙があふれた。夫がいなくなってから初めての涙だった。 ―背中濡らさないでね。 「ごめん、でもさ」  次の言葉は声にはならず、雫となってこぼれた。そのまま顔を押し当てても、姐さんは何も言わなかった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加