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「姉ちゃん、あの日かぁ?」
六チームで日本女子サッカーリーグが開幕した1989年、日本サッカー全体が冬の時代。タダで入る客はレベルもモラルも最低だった。
誘われるまま軽い気持ちで紫のユニフォームを袖に通した菅原が後悔するほど葛飾クラブのレベルは高かった。サッカーなんてとんでもないと言われながら女たちが、やっと見つけた場所で血眼になってボールを奪いあっていた。菅原の足技はおぼつかず、失敗すれば監督も選手も容赦なく叱責を飛ばすのですっかり自信を失っていた。
それでもベンチメンバーには選ばれ、出番がきた。負けている終盤に、センターフォワードとして投入されるとひたすらロングボールに頭からつっこむ。バックチャージに対するファウルも非常に甘く、腕やひざで背中をどつかれて倒される。出てくると帰る客もいればそのでくの坊ぶりをヤジる客もいて、試合に出るのがひたすら憂鬱だった。
突然ベンチからボールが飛び、下品なヤジを飛ばした客の口に命中した。
「後で便所の裏に来な、もっと痛ぇのぶちこんでやるから」
中指を立てたのはキーパーコーチの大石尚幸。若くして現役を退き、女子とユースのコーチを兼任していた。その力強いを受けて立ち上がれないキーパーたちの代わりに菅原のシュート練習にもつきあってくれ、キレを失ってない動きで菅原のシュートをことごとく止めた。
「そんな恐々打って入るかよ。おめぇさん秋田の人だろ、なまはげになんな。俺の腕をへし折るつもりで打ってこい」
長身で彫りが深く、むさ苦しいヒゲを生やす前の大石に、二十歳の菅原が惹かれてゆくまでさして時間はかからなかった。
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