31人が本棚に入れています
本棚に追加
その日、営業部所属の常磐香は、その日の巡回を終えて営業所に戻って来た。そこの駐車場に社用車を停めた彼女は、鞄とキーを手にして車から降り立つ。
「はぁ、やっと外回り終了。今日は残業なしで、さっさと帰りたいなぁ……。うん? 何よ、この光?」
香が独り言を呟きながら車のドアをロックした瞬間、その足元に突如として光の輪が発生し、それと共に異常な風圧と不自然な引力を感じた。
「きゃあぁぁっ!! 誰か、助けてぇえぇっ!!」
半ば意識を失いかけながらも、香は少しして周囲の様子が落ち着いたのを感じたのを契機に、反射的に閉じていた目を開けた。すると同時に、周囲が喧騒に包まれる。
「おぉう! 無事に聖女が召喚されたぞ!」
「これでこの世界は救われた!」
「聖女様、万歳!」
「……何よ、これ?」
香が周囲を見渡すと、そこは石造りのかなり広い空間で、香のすぐ側の床には大人の頭より遥かに大きいガラス玉に見える球体が設置してあり、それを中心とした同心円と不可思議な幾何学模様が所狭しと床に描かれていた。鞄は手元に無かったが、香は反射的に握り締めたままのキーホルダーが付いた社用車の鍵を、無くさないように上着のポケットにしまい込む。
それから様子を窺っていると、騒いでいた人物達は全員円の外に立っていたが、その中で最年長に見える腰の曲がった男性が、しわがれ声で香に向かって足を進め、恭しく頭を下げてきた。
「聖女様、初めてお目にかかります。私はこのリーガルス国の神官長を務めております、グラントと申します。この度、三百年ぶりに復活した魔王を退けるため、古来からの仕来り(しきたり)に従いまして、聖女様を異世界より召喚いたしました。何卒、お力をお貸しいただきたく存じます」
いきなりそんな事を言われた香は、面食らって反射的に言い返した。
「はぁ? どうして見ず知らずの異世界人の為に、魔王なんて得体の知れない物騒なものと係わり合わなきゃいけないのよ? さっさと元に戻してよ。今週中の営業ノルマが、まだまだ消化できていないんだから」
香にしてみれば当然の主張だったのだが、グラントは手元の薄い冊子を眺めながら困惑気味に言葉を返した。
「そうは言われましても……、聖女様をお戻しする訳には参りません。それではしきたりに反しますので」
そこでグラントとは逆にこの場で一番若く見える、豪奢な服を身に纏った若者が会話に割り込んだ。
「召喚した聖女は、しきたりによってその時の王族が娶る事になっている。そなたは記録に残っている聖女の召喚時の年齢より、かなり上みたいだな。仕方が無いから、王太子である私が娶ってやる。弟達に、こんな年増女を宛がうわけにはいかん。犠牲になるのは、私一人で十分だ」
「はぁ!? 何ほざいてやがる、このボンクラ!」
かなり失礼な事を横柄な口調で言われた香は当然腹を立てたが、彼女以外の者達はこぞって彼に称賛の言葉をかけた。
「ガーディス様、さすがでございます!」
「さすが、これからこの国を背負って立つお方です!」
「何とご立派になられて!」
付き合ってられんと呆れた香は、元に戻る方策を探るべくグラントに探りを入れてみた。
「くだらない事をごちゃごちゃ言ってるけど、しきたりってどれだけあるのよ?」
「全て合わせまして、百八存在しております」
「煩悩かよ!?」
思わず突っ込みを入れた香だが、グラントは真顔で首を傾げる。
「はて、『ぼんのう』とは何でございましょう?」
「何でもないわ。それで? 見たところ、それに全部書いてあるの?」
「はい。ご覧になりますか?」
「ええ、ちょっと見せてちょうだい」
「どうぞ、ご覧ください」
聖女が戻せないなら、何か禁止事項が書いてあれば、それを反する事をすれば戻れるかもと推察しながら読み進めた香だったが、半分も読み終えないうちに呆れ果てて怒りの声を上げた。
「ええと……。『聖女の食事が済むまで、同席者は食べてはならない』『聖女が身に付けた衣類は全て、洗濯せずに他の者に下げ渡さなければならない』『聖女が歩む時は、3歩進んで2歩下がらなければならない』って……、何よ、この馬鹿馬鹿しいにも程がある内容の羅列はっ!!」
「何か、まずい事がございましたでしょうか?」
「おかしいと思わないわけ!?」
「どこがどうおかしいのでしょうか?」
(駄目だわ、完璧な思考停止状態。さっき『三百年ぶり』にどうこうとか言ってたし、改める気なんかサラサラ無いわね?)
大真面目に対応しているグラントだけではなく、その場全員が全く疑問に思っていない顔付きの為、香は説得を諦めた。そして冊子の中に複数回出てきた物について、確認を入れる。
「ところで……、『召喚に用いる宝珠を手荒に扱ってはならない』とも書いてあるけど、この宝珠ってやっぱりあれの事よね?」
「はい。我が国建国以来、この地を守ってくださっている物です」
「へぇえぇ? それはそれは……。ガラスっぽいけど、強度はどれ位かしらねっ!?」
グラントに言われて元いた場所に戻った香は、徐に車のキーを、正確にはそれに付いているキーホルダーを取り出した。そしてそれを握り込みながら、平らな先端部分を宝珠に押し付けつつ、手元のボタンを押す。
すると緊急脱出用携帯フロントガラス割りであるそれの、黒い部分からスパイクが飛び出し、ビシッ!!という不吉な音と共に宝珠に突き刺さった。
「なっ!?」
「なんだと!?」
「聖なる宝珠が!!」
「随分、仰々しい、けど、意外に、脆い、宝珠、様、ねっ!!」
周囲の男達の動揺などなんのその、香は次々に場所を変えながらスパイクを引っ込めては突き刺すのを短時間で繰り返し、最後に頂点部分に突き刺すと同時に宝珠の上部が複数の破片になって崩壊した。と同時に、先程香が感じた光と風圧が再び生じる。
「貴様、何て事を!!」
「うわあぁぁっ!」
「宝珠が崩壊した!」
「魔王が倒せない!」
「この世界は終わりだぁぁっ!」
「そんな事知るか! 二度と召喚なんかできないようにしてやる! 死なば諸共よっ!」
悲鳴を上げる男達に香は怒鳴り返したが、その瞬間周囲の景色が一変し、元の駐車場へと戻った。
「うおっと、と。戻った? あ、鞄。良かったぁ~。大して時間も経ってないわね」
そして現状を確認した香は、地面に落ちていた鞄を拾って、何事も無かったかのように営業所内に入って行った。
「戻りました」
「おう、お帰り」
「お疲れ」
そして保管場所に元通り鍵を入れた香は、少し前にキーホルダーについて意見を出した上司の机に向かった。
「主任。あのキーホルダーですが、思わぬ所で役に立ちました」
藪から棒にそんな事を言われた彼は、目を丸くした。
「は? 何か事故に巻き込まれて、車に閉じ込められたのか? それにしてはピンピンしているように見えるが……」
「安心してください。車も私も無傷です。本来の使い方とは、違う使い方をしましたので」
「そうか? それなら良いんだが……」
首を捻った彼に香は余計な事は言わずに頭を下げて、自分の机に戻った。そして香は自分の頭の中から、崩壊したかもしれない異世界に関する記憶を綺麗さっぱり消去したのだった。
最初のコメントを投稿しよう!