プロローグ

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プロローグ

肺が久しぶりの呼吸を始めると、すぐに夜気の香りと金属が焦げたような匂い、そして濃厚な人の血液の匂いに気がついた。 真夜中だろうか、歩き回る人の気配は感知できない。破壊の残滓の音がする以外、静かだ。 体に急速に力が漲ってくる。目を開けば、私の納められていた棺の底の方から白々した明かりが差し込んでいた。ずいぶん明るいな。 棺は底が外れ側面もバラバラになりかけていた。頑丈な作りだったようだから相当強い衝撃を受けたらしい。 棺の残骸をどかそうとして力の配分を誤り、かなり先まで撥ね飛ばしてしまった。まあいい、誰も見ていないようだから。 起き上がり辺りを見回すと、何が起こったか状況が大体わかった。 私を運んでいただろう大きな長い自動車と、少し離れた場所にある小振りの自動車は…どちらも見たことのない形をしているが自動車であるのは解った、無惨にひしゃげていた。この二台は衝突したようだ。おそらく私は衝突の衝撃で大きな長い自動車から棺ごと窓を突き破って前に飛び出したのだろう。 目と鼻の先に女性が一人横たわっていた。弱々しい呼吸音が聞こえる。女性はまだ生きている。小さい方の自動車の持ち主らしい。衝撃で放り出されたのだろうか。 何が私を蘇生させたのか判った。 大量に流血した彼女の血液が流れ出て棺のそばに血溜まりを作り、壊れた棺から飛び出した私の体がその血液を取り込んだようだ。干からびた綿が水を吸い込むように。それで休眠状態だった全身の細胞が息を吹き返したのだろう。 私を乗せていた自動車のガラスの吹き飛んだ前部窓から運転席を覗くと、中の男は明らかに絶命していた。助手席の男もやはり絶命している。せめて女性だけでも助けられないだろうか?私は彼女のそばへ歩み寄った。 奇妙な気分になった。自分の心臓の鼓動以外の鼓動を感じた。そして、自分が感じているのとは別な感情も。何が起こった?これは何だ?誰の物だ? 横たわっている女性はまだ二十代後半ほどだろうか、若い、あまりにも若い。 ぐったりと投げ出された手足もズタズタの衣服も紅い血に染まり、特に脇腹辺りからは夥しい血が流れている。呼吸は浅くとても弱い。 不意に判った。 私が感じている鼓動も感情も、目の前の若い女性のものだ。何故こんなことが起こっている?とても戸惑った。ずいぶん長く生きてきたが初めての経験だ。 今にも消えそうな鼓動、激しい苦痛、死を前にした震えるような恐怖と絶望、手に取るように伝わってくる。 早く手を打たないと彼女はすぐに死ぬ。怪我の深さより出血量より、本人が自分は死ぬと悟ることは同時に生きることを放棄することだ。 さらにそばに近寄り、彼女の傍らに膝をついてそっと抱き起こした。迷っていた。私が、私にしかできない方法で助ければ確実に助かるが、果たしてそうするべきだろうか?これが天から与えられた彼女の寿命なのではないのか?勝手にそれを変えるのは危険だ。自然な流れに逆らえば、必ず波紋か生まれる。彼女にとってそれが良いことであるとは限らない。 伝わってくる感情が変化した。苦痛や絶望が静かに凪いでゆく、そして、何だこれは?深い安らかな安堵?死を受け入れたのだろうか? 慌てて彼女の顔をのぞきこんだ瞬間、彼女がゆっくり目を開けた。力なくまばたきをしながら、最後の意志をすべて使うように、数秒間私を見た。 目が合った。 彼女が意識を失い再び目を閉じたとき、私はひどく動揺し、同時に胸を打たれていた、強く。 目が合ったとき、私に対する混じりけのない信頼を感じた。何故かは良く解らないが、彼女は死の間際にいきなり現れた私を完全に信頼しきっていた。 ああ、もう何百年もこんなに純粋な信頼を向けられたことはなかった。それがあまりにも心地よく暖かく感じられたのは、それだけ人との触れあいに飢えていた証だ。 一瞬でもそれをくれた彼女を、なにもせず黙って死なせる事はもうできなかった。 「私を蘇生させてくれた礼に君の命を助けよう。それが災いにならなければ良いと心から願う」 私は自分の舌を噛み、流れ出る自分の血液を口移しで彼女の喉へ流し込んだ。 彼女が辛うじて飲み込むのを感じる。 十分な量を飲み込ませてから様子を見た。 頬の切り傷がきれいに消えた。他のもっと深い傷もすぐにあとも残さず全て治癒するだろう。 弱々しかった鼓動が力強さを取り戻して安定して行くのを感じた。 彼女はもう大丈夫だ。 他の自動車が近づいてくる音がして振り返った。 やがて後ろに巨大な箱をつけた大きな自動車がやって来て止まった。この自動車は多くの荷物を運ぶためにこのような形らしい。面白そうだ、あとで似たような自動車を見たら良く観察してみよう。 運転手が降りてきた、声をかけてくる。日本語だ。ここは日本なのか。 「なんてこった酷いなこりゃ。あんた恋人か?その娘さんまだ生きてんのか?」 私は事実だけを答えた。 「ああ、生きてる」 男は駆け寄ってきて確認し、息を飲んだ。 「救急車はもう呼んだか?!」 「救急車?まだだ、電話がどこにあるか知らない」 運転手の男はあきれたように唸ると、片手に掌に収まるくらいの薄い平たい板を取り出して、それを数回指でつついてから耳に当てた。すぐに独り言を言い始める。いや、板と会話をしている。あの板は何なのだろう? 「衝突事故です、娘さんが一人酷い怪我をしてます。え?ああー、相手の車に乗ってた連中はダメだね。いや、確認も何も見りゃわかるってありゃダメだ!ああ?場所は…」 男が何をしているのか非常に興味をそそられたが、これ以上ここにいると面倒なことになりそうだ。人が大勢来て皆が冷静になり、壊れた棺の中に居るべき私がこうして動き回っているのに気付かれたらどうなることやら。 私はその場から去って少し離れた電柱の上に飛び上った。ここからでも私には男の「独り言」がかろうじて聞こえる。 見えないように素速く移動したので、もし板に夢中になっていなくともあの男からは私がかき消えたように見えただろう。 なんのためか知らないが、男は板に現在地と目の前の状況を話している。板もなにやら返事をしているようだが不明瞭で聞き取れなかった。 やがて男は板から耳を離し、辺りを見回して私を探し始めた。私が消えたことがわかると首をひねりながら悪態をついた。私のことを通りすがりの薄情な変態呼ばわりしもした。だが、他には助けを呼びにいくでもなく、まるでなにかを待つようにそこに留まり、ウロウロしては彼女が生きているか確認するだけだ。何が起こるか興味が湧いて、暫く眺めていることにした。 驚いたことに、数分後には変わった自動車が二台かなりの速度で駆けつけた。チカチカと天井で派手な色のランプを点滅させ、けたたましいサイレン音をさせて。 あの板が何か働いたらしいとやっと解った。 白い大きな車からは担架を抱えた人間が数人出てきた。あれが救急車か?別な車からはスーツを着た男たちや制服を着た男たちが走り出て状況を確認し始めた。動きが機敏だ、警官か?胸元から延びている小さな機械にしきりに話しかけている。小さな機械からも返事か帰ってくる。まだ誰か来るらしい。 担架を広げながら男たちの一人が彼女を見て叫んだ。 「おい、この子、モデルの輝(てる)じゃないか?!」 「え?うわっ、本当だ、輝だ!不味いな、芸能人なんか引き受けてくれる病院が限られるぞ!」 「ラッキーガールなんてあだ名ついてるくらいだからな!なんとかなるかも!」 「いや、事故に遭ってる時点でアウトだろそのあだ名!とにかく急げ!急げ!たらい回しにされそうだ!」 人助けはするものだ、彼女の名前と職業と渾名が解った。 とにかく三つはすぐ理解できることがあってほっとした。 彼女の名前はテル。 職業はモデルか。助けてよかった、体に傷が残ったら失業してしまったろう。 ラッキーガール?確かに。死にかけているところに偶然居合わせたのがこの私なのだから。 随分人に知られているらしい。怪我の回復の早さで少し騒がれるかもしれない、念のためどうなるか着いていってみよう。もっと人の多くいる場所も見てみたいので丁度良い。 ある程度様子が見えてきたら、一体どれくらいの年月私が眠っていたのかを確かめなければ。 この人の気のない場所でさえ、何もかも、私が敵の罠に掛かり眠りにつく前とあまりにも様子が違いすぎてまるで別世界だ。頭がくらくらする。 衣服も新しいものをすぐ手にいれよう。テルの血液を吸って血まみれだ。 それに恐ろしく流行遅れだろうし、季節外れのようだ。私が眠りについたのは中国の冬、どうやら日本は今、夏が来るところらしい。
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