2 璃松太師(りしょうたいし)

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2 璃松太師(りしょうたいし)

閑静な郊外の住宅街の一郭に、白い漆喰塀で囲まれた森があった。ではなく、それは広い広い敷地の奥まで見通せないように様々な樹木が植えられた、人の家だ。一見森のように見えるが、樹木は敷地の景観を考えて植えられており丁寧に人に手入れをされている 正面には立派な構えの大きな門。 香弥子は、苦虫を潰したような表情で車の後部座席の隣に座る輝を肘でつついた。 「太師が個人的に誰かを観てくださることは滅多にないのよ、そんな顔しない」 「また同じことを言われたら?前世の約束でなんたらかんたら。知ったこっちゃないわよ、前世のことなんて。私は今世、まだ綺麗で若いうちに人並みに恋人が欲しいの!たったそれだけのことなのに誰もそこをどうしたらいいか教えてくれないんだもの、もう、スピリチュアル関係の人の話はうんざり。香弥ちゃんがどうしてもって言うから来たけれど、ごめん、全く期待していない」 玄関のインターホンで来訪を知らせにいっていた香弥子の家の運転手が、運転席に戻ってきて淡々と香弥子に声をかけた。 「お嬢様、直ぐ門が開くそうです、私にも待機する部屋を用意してくださいましたので、其方でお待ちしております」 「ありがとう、笹塚さん。わかったわかった、太師は話しやすい人だから色々聞いてみたらいいわ」 「きっとまた同じことを言われて、心を開けとか宇宙や神様の計らいを信じろとかそういう話になるんだ。かーえーりたーい」 「輝?いいの?私にそんな口きいて?あなたの秘密を知り尽くしているのに」 香弥子が極上の美しい微笑みを浮かべた。この笑顔が恐ろしいと、香弥子が勤める会社の部下や同僚や上司たちは青ざめるのだ。 けれど、幼稚園の頃から香弥子を知っている輝は怯みもせずぷうと膨れた。 笑顔は怖いが、香弥子は口で言うほど冷血な鬼ではない。 「だって、もう、最後の希望も消えちゃったもの…」 「らしくないわね、とことん楽天家なのが輝の良いところなのに」 「他のことならね。でも、恋愛の事になるともう、無理」 「諦めないの。とにかく太師に観てもらって、なんておっしゃるか聞いてみましょう」 この家の主は、今巷で評判の高名な霊能者、璃松太師。TV番組にも二、三度顔を見せたことがある。気さくな人柄の五十代ほどの男性だ。各界の著名人からも敬われていた。 大企業グループの会長でもある香弥子の父親は太師がまだ若い頃からの旧知の仲で、香弥子も子供の頃から知己がある。香弥子がスピリチュアリズムに傾倒しているのは、璃松太師の影響だ。 駐車場で待っていた太師の一番若い弟子は、輝たちと同じ位の年齢だろうか?香弥子の後から車から出てきた輝を見ると、目をキラッと輝かせた。 「ようこそ。先生が昨日から輝さんとお会いするんだとずっと喜んでいましたよ。生のラッキーガールに会える!って。俺も嬉しいです、ここにいると世間から隔離されてるような気持ちにりますからね。いやあ、実際の輝さんはポスターよりお綺麗ですね」 「今、本の執筆でお忙しいんでしょう?良かった、無理矢理お願いしてご迷惑じゃなかったか心配していたの」 愛想笑いこそ浮かべているが、輝はムッツリと気乗りしないオーラだだ漏れで太師の弟子を眺めている。 香弥子はそ知らぬふりをして、代わりに愛想良く相手に話しかけた。 「いや、香弥子さんから話をきいて前々から輝さんに興味があったみたいですから、全然気になさらず!」 こちらです、と敷地の奥の方へ案内しながら、弟子は豪快に笑った。 輝は歩きながら肩をすくめた。 誰もがため息を漏らす正統派美人の香弥子の前で自分の容姿を誉められても返事に困るし、弟子というからにはこの男性も何らかの「素質」があるんだろうと思うと、二人いる女性の前で一人だけ誉める無神経さが胡散臭い。師匠の太師はいったいどんなだろう、めんどくさいなあ、帰りたい。 初夏の日差しが木々に心地よく遮られて、敷地の中は涼しい。土の上に置かれた踏み石を辿り、池やハーブ園を廻って家屋らしき二階建ての大きな和風の建物の縁側にたどり着くのに、五分はかかった。 風が吹き抜けて心地よさそうな家だ。 幽かにお香の典雅な香りが漂ってくる。 縁側に面した部屋は畳敷で、真ん中にラグが敷かれ、座り心地のよさそうなソファセットがセッティングされていた。 一人がけのソファに、中肉中背の男性が居心地良さそうに座っている。あまりテレビや雑誌を見ない輝は、香弥子にあれが太師だとささやかれて、まじまじと男性を見た。 太師も、顔をあげて輝を見た。そのまま、挨拶を交わして、輝と香弥子がソファに腰かけるまでずっと目を離さなかった。 優しそうな顔をしているけれど、眼だけ何だか様子が違う感じかする。本当に他の人には見えないものを見ているような。不思議な人だな。 そう思っていると、さっきとは別な弟子が来て、香りの良いお茶とつやつやした木苺が山盛りの器を出してくれた。 やっと太師の目が輝から逸れた。 「この木苺はうちの庭で取れたんだよ。甘酸っぱくてねえ、僕大好き」 早速一粒口に放り込んでモグモグしながら、璃松太師は嬉しそうに輝たちにも勧めた。あまり太師が美味しそうに食べるので、輝も手を伸ばして木苺を口にいれてみた。思わずうっとりする。 「うわあ、美味しい」 「でしょう?食べて食べて。沢山取れるからまだ冷蔵庫に山ほどあるよ」 「美味しくて手が止まらない、遠慮なく!」 夢中になって木苺を頬張る輝の隣で、香弥子が聞いた。 「太師、輝はどうですか?」 「良いねえ、素で自分を信じてるから、運をどんどん引き寄せてるねえ。僕たちが心の修業をして得るような魂の素直さを自然体で持ってるんだね。けれど、うーん」 急に太師が真剣な表情になった。輝は木苺を食べるのをやめて聞き耳をたてた。 「凄く変わった恋愛運だよね。輝さんは一生に一人しか愛せない。その人以外の人は愛せない。その人は輝さんの魂の片割れみたいな人だね。出会ったらとてもとても幸せになる…」 突然輝は立ち上がって、バン!と身を乗り出した。 香弥子がぎょっとしたように輝を見る。 普段輝は人前で声を荒げることは滅多にない。大抵なにか楽しそうなことがある様子でのほほんと幸せそうにしている。 けれど、ついこの間、今度こそはと思っていた男性の前で「体内内蔵警報装置の過剰反応」があったばかり、ほとほとうんざりしていた、本当にもう、うんざりしていた。 輝は叫んだ。 「太師、あのですね、それは前々からいろんな人に言われて知ってるんです。前世でその人と約束したんだとかで、私はその人しか愛せないんでしょ?知ったこっちゃない!」 太師は輝の剣幕に面食らったような表情になった。 「前世っていつの時代ですか?」 「え、ええとね、かなり古い、千年くらいは昔じゃないかな?日本でもないね、中国、だと、おも…」 「ほらね!ほらね!そんな大昔ならそういう約束もアリでしょうけれど、今は21世紀よ、ほとんどの女性が何人か恋人と付き合ったり別れたりしてから結婚してる!何で私だけその誰だかわからない人を待たなきゃいけないの?キスもダメ?あんなの挨拶みたいなものじゃない。いつその人に会えるか解ります?」 太師はぎゅうと眉をひそめて集中してから、申し訳なさそうに答えた。 「うん、ここ十年の間かなあ…」 怒りの表情から、輝は半泣きの顔になってへなへなと座り込んだ。 「十年!十年たったら私37歳よ冗談じゃないわ、太師、貴方ほど力がある人なら、私の前世のバカみたいな約束をキャンセルできません?私、こんな華やかな仕事をしてるし「恋多き小悪魔」なんてイメージまで持たれてるのに、その実態はファーストキスもまだ出来ない恋愛不能女だなんて、ファンも世の中も私のこと好きだっていってくれた人たちも全部騙しているようで、も、もう嫌だよう!私だって、私を愛してくれる人を真剣に好きになりたい!」 溜まっていた鬱憤を全部吐き出すように、輝は身も世もなく大泣きを始めた。ボロボロボロボロ涙がこぼれて、止まらない。 香弥子が不憫そうに輝の背中を撫でる。 璃松太師は、そっとティッシュの箱を香弥子に手渡した。 「いやあ、辛かったんだねえ、思う存分泣かせてあげなさい、うちは結界が張ってあって大騒ぎしても大して音漏れしないんだ、近所から苦情来ないよ」 太師は静かにそう言うと、彼女か落ち着いた頃戻るね、話しておかなければならないこともあるし、と部屋を出ていった。 輝が落ち着くまで小一時間かかった。 泣きたいだけ泣いて落ち着くと、様子を見に来た太師の弟子が大きなピッチャーに冷たく冷えた水を持ってきてくれた。この水は敷地内にある井戸から汲んできたばかりだそうだ。 「浄化の力があるお水です、沢山飲んでくださいね」 輝は大人しく受け取って、コップに三杯一気飲みをした。泣きすぎて喉がカラカラだった。 「気分どう?」 香弥子に聞かれて、輝は力の抜けた声で答えてへにゃりと笑った。 「まだなんにも解決してないのに、変なの。物凄くスッキリした気分になった」 「お、ガッツリ毒抜けたねー、さっきはまともに話せる感じじゃなかったからね、うん、良いね」 太師がゆっくり部屋に入ってきて、輝に笑いかけた。輝も自然に笑い返していた。 太師は流れるような所作でテーブルで新しいお香を焚くと、真っ直ぐ輝を見つめた。 「さっき、言ってたね、前世でした約束をキャンセル出来ないかって。覚えてる?」 輝が頷くと、太師は少し強い声で話を続ける。 「それが出来るのはね、約束した当の本人だけなんだ。わかるかな?腹の底からうんざりして辞めた、と決めたら、大抵魂が納得して前世の約束なんて手放せるんだ。けれど、輝さんは今までさんざん辛かったのに手放せないでいたね。いろんな人に同じことを言われていたのに聞く耳持たなかったよね?君が泣いてる間、離れたところから観てたんだ。ただの約束じゃないようだね。前世で輝さんとその人が約束する様子か観えたけれど、輝さんはあの時点でその人が自分の魂の片割れだと理解して、もう一度、二度と離れなくてすむように会おう、とお互いに約束したようだよ?どうする?キャンセルしたいかい、その約束?」 輝の脳裏に、ふっとイメージが沸いた。 誰かを抱き抱えて、強い暖かい気持ちで自分が今言われた約束をしている。もうじき二人とも今世では永遠に離ればなれになる。だから、魂を込めて二人で約束をしていた。誰かは言った、来世では簡単には死なない頑丈な体に生まれて、今まで苦労を掛けた分、自分が君を探すから、必ず見つけるから、と。じゃあとても見つけやすいように生まれる、前世の輝は答えた… あれだけ泣いたのに、また涙がこぼれてきて、輝は驚いた。さっき大泣きした時の涙は冷たかったけれど、今の涙は暖かい。 「なに?これ、こんなこと初めて…」 「この敷地はね、護られた良い気が流れていてね。普通の人は選ばれないと入ってこれないんだよ。香弥子ちゃんから君をつれてきたいと言われたとき、ピンと来た。前から君に会ってみたかったけれど、とにかくタイミングが合わなくて不思議だったんだ。うちに来ることになってたのかって、納得した。何か思い出したね?」 あれは思い出したのだろうか?輝はもう一度頭の中で再現しようとしたけれど、思い出そうとするとどんどんぼやけていく気がした。 ただ前世で二人で約束したときの想いだけが、強く心のなかにあって、今の自分と同化するのだけは解った。 何と言っていいのか言葉か見つからず太師の顔を見ると、太師は軽く頷いた。 「どうする?キャンセルしたいかい?」 かなり迷ってから、輝は首を横に振った。根負けさせられた気分だったが、嫌だと思ったから仕方がない。 けれど…輝はダメ元で食い下がった。 「でもね太師、私はやっぱり今のままあと十年も待つなんて無理!幸せにならなくても良いからとにかくファーストキスとバージン卒業位はしたい。ダメですか?」 璃松太師は、ブッと吹き出し、ゲラゲラ笑いだした。 「うーーーん、さすがラッキーガール!黙って運任せにしない!切り開きに来たかー!良いねえ!どうしようかなあ、約束を守りながらそういうの全部クリアするならね、えーと…そうだ、しげくーん!神棚の下の麻紙と筆ペン持ってきてー」 家の奥から、はーい、と野太い声が返る。この家には何人弟子がいる?輝は縁側部屋の出入口をのぞき込んだが、のれんの奥は暗くて見えなかった。 香弥子がワクワクした声を出す。 「太師、お札を書いて頂けるんですね!よかったわね輝!」 「ん?お札?手書き?」 輝の頭は子供の頃に見た香港のキョンシーホラー映画の、ちびっこ導師様が大量に持っていてキョンシーにペタッと張り付ける黄色いアレを思い浮かべていた。 …ありがたみが良くわからない。 香弥子がイライラして説明しようとしたが、太師はまあまあ、と制して、弟子が持ってきた手のひらサイズの紙に筆ペンでさっと達筆すぎて良く読めない文字や、なにやら記号を沢山書き込むと、輝には楽しげにこう言った。 「これね、輝さんと約束した人と最速で会えるおまじないのお札。良く目につくところに持っててね。あげた人は遅くても1ヶ月以内で願いが叶ったよ。凄く効くから、余程じゃないと書かないことにしてるんだ、ほしいって人が殺到したら面倒だからね。気分が相当乗らないと、無理矢理書いても効き目弱くなるし。輝さんはこれあった方が良いと思いました、はい、どうぞ」 「ありがとうございます…」 輝は差し出されたお札を困惑顔で受け取った。いかにもな見てくれの紙を一枚剥き出しで受け取って、書いてくれた気持ちはとても有難いけれど、破れたり汚したりしたらどうしよう、持ってるのを誰かに見られるのもちょっとなあ、と思った。 恐る恐る、持っていたハンドバッグの内ポケットに入れようとしたがサイズが大きく、入らない。 「折り畳んでも別に支障はないから」 太師が笑いながら言った。少しほっとして、輝はそうっと丁寧に折り畳み、バッグにしまった。 璃松太師はすっかり話が終わると、自分の弟子達を全員呼んで、香弥子と輝に引き合わせた。 総勢五人の弟子たちは、人気者の芸能人の輝や、美しい香弥子に興味深々で、喜んで話しかけてくる。 太師たちと輝たちは暫く歓談し、太師自慢の広い敷地のなかをゆっくり歩いたりした。 夕方、太師は香弥子と輝に、敷地の中の井戸の水を詰めた大きなペットボトルと、コンビニのビニール袋一杯の木苺をお土産に持たせてくれた。 「二人とも、いつでも遊びに来てね。今僕本を書いてるところだけれど、実は長いこと机にへばりついて文書を書くのは苦手なんだ。若い娘さんが来てくれると張りが出て楽しいから。ここ、見ての通り男所帯だしねえ。輝さん、約束の人と出会えたら、その人と是非来てください、素敵な君のことを待たせてた人がどういう奴か会ってみたいよ」 輝は太師の話しぶりが少し父親じみて優しく暖かったので、笑って頷いた。太師が書いてくれたお札の効力は半信半疑だが、太師が本気で輝が前世の約束の誰かと会えると確信しているのが心から嬉しかった。
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