5 誰かさんの悪夢

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5 誰かさんの悪夢

この病院には、輝のように有名でプライバシーを守らなければいけない患者のための特別個室がある。 良いところに入院できたなと、輝は思った。 最初は。 病室は結構広い。ベッドの他に、ソファーセット、ドレッサー、トイレ、バスルームもある。 看護師から、部屋の外へ出たり窓際に立たないで欲しいと注意された。他の患者たちが落ち着かないし、病院の外でカメラを持った報道関係者が待ち構えているそうだ。 その話を聞くと一気に現実に戻された。 映画の撮影はどうなるんだろう? 四日間で完治したなんて話、めちゃくちゃ驚かれるよね? 輝を動揺させないようにという配慮だろう、部屋には今、テレビもラジオもパソコンもスマホも情報を与えるものは一切置かれていない。 ヨーヨーにせめてスマホだけでもとごねると、折角二週間も上げ膳据え膳で休めるのだから頭を空っぽにして満喫しましょう!としれっと取り合ってくれなかった。 少しくよくよしたが、すぐ面倒になって輝は考えた。 あれだけ大見得切るんだから、大丈夫、ヨーヨー、いつものように上手くやってくれてるんだな。 今度はどんなプレゼントで労おうかな。 この前はハワイ三泊四日をあげた。ヨーヨーは一泊で帰ってきた。 「私の仕事は輝サンのお世話をすることです!私怠け者じゃありません!あんなにお休みほしくありません!」 真剣に怒られた。喜ぶと思ったのになあ。もう10年の付き合いになるが、ヨーヨーのツボが未だにわからない。 服や靴をプレゼントすると、喜ぶが勿体無くて使えないと自分の家に飾ってしまう。温泉旅行は人前で裸になりたくないから嫌だそうだ。見られて恥ずかしい体はしていないのに。ヨーヨーはボディーガードもこなすほど鍛えている。 ヨーヨーの狂喜乱舞するツボを見つけるのが、輝の第二の野望だ。 困ったこともあった。 肉体的には事故の後遺症は出て来ないようだったが、精神的なダメージが発覚した。 目を覚ましたその日から、眠りかけると悪夢を見た。全身を地面に思い切り叩きつけられる夢だ。 事故に遭った時の衝撃を体が生々しく覚えていて、夢を見るたび輝は飛び起き、暫く体の震えが止まらなくなった。本当によくあんな目に遭って五体満足で居られたものだと、しみじみ自分の幸運に感謝した。 医師に相談すると、大きな事故に遭った患者に良くあることらしい。普通は体のダメージが回復してから、かなり時間が経ってそういう夢を見るものだそうだ。だから、体もさほど事故の衝撃を覚えておらず、輝ほど劇症にならない。 医師は輝に強い睡眠薬を処方してくれた。 すると、眠ることはできるようになったが、別な夢を見るようになった。 怖い夢というより胸騒ぎを連れてくる夢だ。 眠っている輝を、多分人間なのだと思うが強い凄まじい悪意を持つ者が遠く、とても遠くから見張っている。 夢を見るたび、その何者かは、じわじわと距離を縮めてくるように思えた。そいつの悪意が輝を捕まえようと日に日に夢の中の輝を取り囲んで行く。 しかし、その悪意は輝に向けられたものでは無い。 では誰に? その人のが危険だということだけは判った。 知らせなくては、と辺りを探してみるがそれらしい人物は見当たらない。 近くに居ることは確かなのに。 夜明け間際の眠りが浅くなり始める頃、もどかしさの余り泣きたい気持ちになって目を覚ます。 夢の印象が強すぎて二度寝はできず、息苦しさを追い払うためにこっそり部屋を抜け出して、誰もいない喫茶室で朝の検診までの時間を潰した。 この夢は意味のある夢だと輝には判った。こういう夢を見るときは、目をそらしてはいけない。悪意が向けられているのは自分のとても身近な人なはずだ。 ヨーヨーが毎日様子を見に来るし、香弥子も忙しい中暇を見ては来てくれた。 太地と公太は報道陣が居る手前、遠慮して来ない。変な噂がたてられたら自分達も輝も困るからと。少し寂しい。 同業の友達や関係者から、花束や差し入れのお菓子や本が沢山届けられた。 病室には花が一杯だ。花の香りは心をなごませてくれた。本の方は読むと夢中になり体を動かさなくなってしまうので、ヨーヨーに頼んで自宅に積ん読にして貰った。 輝は療養の必要が無いため、病院が三食ガッツリ美味しい物を提供してくれる。ありがたいが職業柄体型が変わると困るので、暇な時間は入念に時間をかけてヨガ、筋トレ、ストレッチをした。 ヨーヨーはファンレターも沢山来ていることを教えてくれたが、持ってきてはくれなかった。世間の情報が入ってくるから、と。なぜそんなに自分を世間から隔離したがる?流石に楽天家の輝も、入院が一週間目になると怪しんできた。嫌な予感がする。でも、一旦輝のためだと決めるとヨーヨーは頑として話してくれない。 そこが怖い。 食い下がるとヨーヨーはチッチッと指を振った。 「看護師さんから聞きました、輝サン夜明け前に病室から出てくる、サロンルームを難しい顔してウロウロ。まだ怖い夢見ますか?心を休めましょう」 そしてもう聞かないよ、という体で丁寧に中国茶を淹れ始めた。こうなるとヨーヨーは必要なことしか話してくれなくなる。 輝はむくれて、ぶつぶつ呟いた。 「怖い夢じゃないんだけれど、もうずっとちょっと嫌な感じの夢を見るなあ」 ヨーヨーか真面目な顔になって振り返った。ラッキーガールの輝が夢を気にするときは、本気にして間違いないからだ。 「Bad dream?」 「んー、Bad dream,maybe. But I think it's not mine」 ヨーヨーの表情はパッと明るくなった。輝が無事ならあとはそれぞれの運に任せるのがヨーヨー流だ。 「Miss.香弥子はなんて言いましたか?」 香弥子は本格的ではないがタロット占いをする。それなりに腑に落ちる答えがもらえるので、輝も自分の命運を任せるほどでもない事柄はたまに占いを頼むことがある。例えば、こんな意味不明な夢の夢解きなど。 「占ったら、その人はとても強運な人、ってでたからあまり心配しなくていいって。でも、こう毎晩同じ夢を見たら気にならない方が変よ、誰の事なのか分かればスッキリするんだけれどなあ、今度のはこの人って感じが来ない」 「珍しいです、輝サンがすぐ分からない?」 ヨーヨーは香りの良いお茶を輝に渡しながら首をかしげた。 夕食のあと、若い女性の看護師がこっそり輝を訪ねてきた。 「輝さん、張り込んでいた記者の人達が他の事件の方に取材に行って少なくなったので、朝早くか消灯時間を過ぎてからなら息抜き程度に中庭をお散歩しても大丈夫ですよ」 「本当?やった、嬉しい!」 もう何日も部屋から出られず、肉体的には全く異常のない健康体の輝は少し腐っていた。窓際に立てないので外の景色が楽しめるわけでもない。思わずもろ手で歓声を上げる。 看護師はしー、と輝を黙らせると、茶目っ気のある笑顔で輝の耳元に囁いた。 「さっき、院長がナースセンターに来て「あのモデルさんどうなったろう?若いんだし閉じ込めるのも何だな。中庭ぐらいなら歩いて構わないのに。遠慮してるのかな?」って、大きい独り言を言ってったんです。建前は部屋から外出禁止ですが黙認するってことですよ、良かったですね」 輝は小さく手を叩いた。 「ありがとう、知らせてくれて」 輝が満面の笑顔で笑いかけると、看護師は顔を赤くしてどぎまぎと照れた。 「ただし、他の患者さんたちが来たらすぐ部屋に戻ってきてくださいね」 「わかりましたー」 こそこそと部屋を出ていく看護師に、輝は手を振った。 誰に見られても構わないよう、念のため母が持ってきてくれていた可愛いジャージを着込んでそっと部屋を出た。 ナースセンターの前で夜勤の看護師さんと目が合ったので笑いかけると、皆笑いかえしながら無言でピースサインを送ってきた。良かったねー、顔がそう言っている。サムズアップで応えた。 しんと静まり返る廊下を歩いてエレベーターホールへ。夜の病院て、何だか別世界に来たみたいだな、輝は辺りをキョロキョロ見回しながらエレベーターを待つ。 静かな音がして、エレベーターが止まった。扉が開く。少し悪いことをしているようなワクワクを感じながら乗り込んだ。患者がベッドごと乗り込めるように、中は広い。 ドアが閉まる。下降が始まる。 中庭は散歩するのに丁度良い広さで、初夏の今は植えられている木々の新緑の香りが夜気に混じり、とても気持ち良かった。のびのびと体を伸ばして何度もゆっくり深呼吸をしてみる。 新鮮な空気はやっぱり美味しい、輝は嬉しくなった。ああ、良いなあ、天井のない場所! 周りの建物に切り取られた空には、猫の爪のような細い三日月があった。 タンゴは今頃どうしているだろう?愛猫の事を思う。海外出張が多い輝に慣れているので、落ち込んではいないと思うが寂しがっているだろう。 キャットシッターさんと話したいが、只今世間から完全情報隔離中の輝には通信手段がない。こんな良い月夜は自宅のテラスでタンゴをモフりたい。思い切りモフりたい。 枝を広げた広葉樹の下にベンチを見つけて腰を下ろした。そばには花壇があり、今は淡い青や黄色の花が生き生きと咲いている。 そよそよと風が流れてゆく。 輝はタンゴを想って小声で歌い始めた。母が、輝が子供の頃よく一緒に歌ってくれた歌だ。タイトルは「黒猫のタンゴ」 「君は可愛い、僕の黒猫、赤いリボンが…~」
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