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1 ラッキーガール 輝の憂鬱
「輝?…大丈夫?あー…」
香弥子はスマホの向こうから聞こえる、いかにも泣いていますという激しく鼻水をすする音で何があったか大体悟った。
輝はしゃくりあげながら話し出す。
「か、香弥ちゃん、駄目だった。やっちゃった!ど、ど、どうしよう、わ、わ、私本当にこのままおばあちゃんになってキスってなあに?の「妖精さん」になっちゃうんだ!想像できるもの!あんまりだよぅ!」
「わかったわかった、落ち着いて」
スマホの向こうでは洪水ね、香弥子は泣きじゃくっている幼なじみの親友を想像してため息をついた。
かける言葉が見つからなくて。
輝にはこれっぽっちも悪気はないのだ。
ただ、どうしても、頑として、男性の求愛モードのアプローチが生理的に全く受け付けられない。
輝自身も相手にかなりの好意があって、どんなに親密になっても、相手が求愛モードになったとたんに駄目だった。
これを輝は「体内内蔵警報装置の過剰反応」と呼んでいる。
現在27歳の今まで恋人いない歴=年齢、ファーストキスすらまだ未経験だ。
この事は香弥子と輝のマネージャーしか知らない。
世界をまたにかけて活躍する華やかなモデルであり、これから女優としても活動しようとしている人気者の輝が、実はファーストキスさえ出来ない「訳ありバージン」だと世間に発覚したらどうなるか。考えるだけで恐ろしい。両親にさえ何故恋人ができないか本当の事が話せないでいる。なにも知らない両親は、この頃結婚の二文字を盛んに話に盛るようになってきた。
普段、「体内内蔵警報装置」は、いつも幸運を呼んでくる。
何となく行かない方が良いと感じたらその直感に従う。
例えば、遠回りしたせいで乗り遅れたバスが事故に遇い乗っていたら命に関わっていた、乗るのを辞めた飛行機が乱気流に巻き込まれて怪我人を多数のせて戻ってきた、違う道を帰ることにしたら、いつもの道で通り魔事件が起きた。
逆にも働く。
この方向はとても安全、とても楽しそう、自分の直感に全面の信頼を置いているため、輝は子供の頃から不思議なほど幸運な流れをつかむのが上手く、周囲があきれるほど楽天的な性格になっていった。
ただし、恋愛関連以外のことは、だが。
そして、17歳の時。
街角でファッション雑誌の企画で雑誌に載せる写真に写ることを引き受けると、その後雑誌の写真を見た、次のショーのために「普通の身長の女性モデル」を集めていたパリコレの常連デザイナーが「なんてかわいいの!」と一目惚れして輝をスカウトした。
そのデザイナーのパリでのショーでモデルデビューを果たすと、面白いアジア系の逸材がいると他の有名デザイナーたちの間で評判になり、瞬く間に引っ張りだこになった。
輝の強みは、天使、悪魔、妖精、幻獣…この世にに実在しない様々な存在を変幻自在に表現出来る、正統美人ではないが国籍問わす人目を引く人形のようなファニーフェイスと、モデルとしては162cmの小柄ながら手足の長いプロポーション。
ランウェイを歩くのではなく、イメージモデルとしてその後も有名なブランドや企業のアイテムのポスターに数多く起用され、日本には逆輸入で名が知られるようになった。
ここ数ヶ月は、ハリウッドでも特殊映像に定評のある日本人の監督の熱心なオファーを受けて、架空の國を舞台にしたファンタジーアクション映画のヒロインとして女優デビューが決まり、映画スタジオで慣れない演技と悪戦苦闘している。
輝の歩んできた道は、不思議なサクセスストーリとして、もはや伝説だ。
人は、輝をこう呼ぶ。
ラッキーガール。
でも、自分がそう呼ばれていることを初めて知ったとき、輝は香弥子に呟いたものだ。
「ハリボテよね…」
輝の恋愛対象はちゃんと男性だ。
けれども、好ましいとまでは思うものの、いざ相手から求愛モードでアプローチを向けられると、その時点で警報装置が反応し始め、自分の直感に信頼を置いている輝はどうしても逃げたくなる。
年々賢く相手を傷つけずに友達関係に落ち着けるのが巧くなり、恋人どころか「いい異性の友達」ばかりが増えるのでやさぐれ始めていた。香弥子の前でだけだか。
本人も自分はおかしいと自覚があり、様々なカウンセリングやセラピー、果ては精神科にも密かにお世話になったが、幼少期のトラウマもなければ、性的な行為に嫌悪や恐怖感があるわけでもない。映画やドラマのラブシーンはかなり際どいものも普通にワクワク楽しめる。
ただ、現実に異性から求愛モードでアプローチされた時だけ、体内内蔵警報装置が過剰反応してしまうのだ。
無視して無理矢理相手の気持ちに応えようとすると、恐怖に似た感情にがんじがらめになって心と体が恐慌状態に陥り、ショック症状と相手への罪悪感で何日も寝込むほど体調か崩れてしまう。
海外でも活躍する「ランウェイを歩かないトップモデル」として唯一無二の存在になってもそれを全く鼻にかけず、おっとりした楽天的な性格の輝は、男性からするとなんとか手に入れたいと思わせる魅力があり、かなりモテた。
親密さが交際しているらしいと噂になり、芸能レポーター達の突撃に、輝の関心を引きたくてわざとフラゲで交際宣言をしてしまう男性もいた。一人ならず。
その度に否定コメントをだしていたら、「恋多き小悪魔モデル」とささやかれる始末。
けれど、彼女に恋をした男性たちは、特に誠実に恋をした男性たちは、なんとか想いに応えようと無理をして「体内内蔵警報装置の過剰反応」がピークに達した時の輝の様子に驚き、自分からあきらめて良い友達になり、輝の名誉をを守ってくれた。
今回も、輝自身慎重に丁寧に親密さを深めて、この人なら、といい雰囲気になったところで体内内蔵警報装置が律儀に頑固に過剰反応し、相手の男性が呆気に取られてジ・エンドとなったのだ。
「す、すごくいい人なのに、私きらいじゃなかった、寧ろすごく好きだった、彼の気持ちに私だって応えたかったのに、だ、駄目だった、駄目だった、あんな素敵な人でも駄目なら、も、も、もう誰にたいしても駄目、一生カトリックのシスターみたいに生きなきゃいけないんだ、あんまりだ、好きでそうしたいんじゃなのに!なんなのよ私の警報装置、何がしたいのよ」
ここ何週間もずっと「本当に素敵な人で、私、大丈夫な気がする」と、とても嬉しそうに、そして祈るように輝が話すのを聞いていた香弥子は、輝がどれだけ今落ち込んで参っているか我が身のことのようによく解った。
幸いなのは、こうしてオイオイ泣きじゃくれる元気があるので、体調を崩すほどは参っていなさそうなことだ。
香弥子は努めて静かに輝に話しかけた。
「輝、今、どこ?家?」
「うん」
香弥子はリビングの壁時計を見た。
21時20分。香弥子の家から輝のマンションまでは40分もあれば行ける。
香弥子は明日は輝の家から出勤しようと即決した。切っても切れぬ縁の親友を、一人焦心のまま放っておけない。
「解った。今からそっちにいくわ。一人で泣かないで、ほら、なにか作りなさい。そうねえ、美味しい海老団子スープ作って待ってて、ね?」
「海老団子?…わ、解った」
頭が煮詰まると、輝は料理を作る。状況がこんがらかっていればいるほど作る量や品数はすごいことになるが、気がすむまで作り終えれば輝は大抵落ち着きを取り戻す。
元気が出てくれば、親しい友達に届けて回ることもある。
輝の作る料理はどれも友人たちが太鼓判を押す美味しさで、香弥子は特に輝の作る海老団子スープが大好物だ。
輝の家につく頃には、食べきれない量の海老団子スープが待っているだろう、香弥子は苦笑しながら、サテンの艶めかしいルームウェアから軽い服に着替えた。
ドレッサーの前に座り、隅の方にちょこんと座る妖精のフィギュアを覗きこむ。妖精の顔は、香弥子には励ますように笑っているように見えた。
吉兆だ。
アクセサリーケースから、希少なパワーストーン、アンデシンのピアスを選んで耳に着け「お願いね、輝を慰められますように」と小声で頼む。この石は、身につける人のインスピレーションと霊性を高める働きがある。
軽く化粧をするとお泊まりセットをスマートに荷造り、家政婦に出掛けることを伝えた。
「今晩は輝の家に泊まるから。明日もそのまま出勤するわ、お父さんとお母さんに伝えてね。なにか伝言があったらお昼休みに連絡して。じゃあ行ってきます」
「お気をつけて。お休みなさいませ」
広い玄関の重厚なドアをあけて、車の停めてある車庫に向かう。
運転手がもう待ち構えて、後部座席のドアを開けてくれた。
「輝のマンションまで、いってちょうだい」
「かしこまりました」
香弥子は、窓の外を眺めながら柄にもなく拳を作り力を込めた。
もうこうなったら、引きずってでも、「太師」に会わせよう。
相当いやがるだろうけれど、多分、今弱っているうちに説得すれば、太師のところにつれていくことはできるだろう。
そこまでいけば、あとは太師が何とかしてくださるわ、大丈夫。
通りすがりに、良さそうなリカーショップを見つけた。
今晩は輝を酔わせてしまおう、あの娘すぐねむるから。夜通し泣きじゃくるよりは、酔い潰れる方が体に良いわ。
「止めてくれる?、お土産を買っていくわ」
「はい、香弥子お嬢様。よろしいかと思います、よい酒は万病に効きますから」
「笹塚さんもやっぱりそう思う?ワインを買ってくるわ、輝が海老団子スープを作ってくれてるから」
「よろしいですねぇ、あの方のお料理は心がこもっていて本当に美味しゅうございます、あのう」
「多分食べきれないくらい作っているから、笹塚さんの分ももらってあげる」
「恐れ入ります」
輝の住む部屋は、セキュリティのしっかりしたマンションの八階にある。
エントランスには24時間ガードマンが常駐しており、住人や来客をチェックしている。
このマンションはワンフロア2ブロック、どの部屋も二階造りになっていて、内装や部屋数は住人が好きなように変えられる。
広い部屋が好きな輝は、一階は壁を取り払ってキッチンとリビングを置いた。
二階には三部屋。自分の部屋と、書斎と、両親が泊まりに来たときに泊める部屋。ここに男性が泊まったことは一度もない。仲の良い友達でも、父親以外の男性が泊まるとそれだけで輝の体内内蔵警報装置が過敏になるからだ。
広いので、香弥子は泊まりに来るといつも輝の部屋で輝と同じベッドで眠る。
エレベーターから降りると、香弥子は荷物を手に、輝の部屋の玄関に向かった。もうついたのは知らせてある。
ドアは鍵が開いていて、香弥子はチャイムを押さずドアを開けた。
フワッと美味しそうな香りが漂ってくる。
「輝?来たわよ?」
中に入りながら声をかけると、輝ではなく輝の愛猫が現れて、助けてくれと言うように香弥子の足元で座り込んだ。
余り可愛らしい猫ではない。真っ黒で、片目は潰れ、開いている目は黄色、凄く太っている。だか、とても賢い。輝を大切にする人間をちゃんと見分ける。この猫は、輝がイギリスの田舎町にモデルの仕事の撮影で行ったとき、怪我をして動けないでいるのを見つけてそのまま日本につれてきた。
「タンゴ、輝はどこ?」
タンゴはのそりと立ち上がると、家の奥へ歩いていく。ついていくと、輝はキッチンで一心不乱に鍋を覗いていた。
「輝、来たわよ」
香弥子が声をかけると、輝が振り向いた。
泣き腫らした大きな眼からボロボロボロっと涙かこぼれ始める。そのまま、輝は香弥子に抱きついた。
「香弥ちゃん、駄目だ、料理してても涙が止まらない」
香弥子は輝の頭を撫でた。
「わかったわかった」
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