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⑱
三十分ほどが経った。
凛は今ごろ大丈夫だろうか? と考えていると、俺の腕の中の沙耶ちゃんが、もそもそと動く感覚があった。
雨脚は、まだ強かった。
「大丈夫? 少し寝ちゃってたね」
俺は彼女を安心させようと、笑いながら、そう声をかける。
「ん……」
沙耶ちゃんが眠たげな声を出しながら、顔を上げる。
っていうか、さっきまであんなことがあったから、全然意識できてなかったけど……。
JK沙耶ちゃん、滅茶苦茶かわいいんだが⁉
天使すぎるだろ! いや、俺と同じ時代の沙耶ちゃんも勿論かわいいけどさ!
これ、破壊力がバツグンすぎるよ!
沙耶ちゃんが、目をこすりながら言う。
「あれ、ここは? そっか、私、襲われて……」
寝ぼけているJK沙耶ちゃんもかわいいな。
沙耶ちゃんが二重の目をぱっちりと開き、俺の視線と正面からぶつかる。
すると、沙耶ちゃんの表情がみるみる変わっていく。
「っ‼ えっ⁉ なんで……⁉」と沙耶ちゃんは慌てた声で言い、俺の腕から飛び出した。
そして彼女は後ずさる。といっても、細い路地裏だから、俺と彼女の距離はいまだすぐそこなのだが。
すぐ傍にある沙耶ちゃんの顔を窺う。その顔は、暗い路地裏でも分かるほどに、赤く染まっていた。
「大丈夫? 俺のこと覚えてる? さっき君を助けて」
「あっ、は、はい。それは、覚えてるんですけど……」
先ほどよりもはっきりと赤くなった顔で、沙耶ちゃんが答える。
「ど、どうしたの?」
「いえあの、私、いま寝てたみたいで……。その、夢を見て……」
夢!
ということは、沙耶ちゃんはまた未来を見てしまったのか。
「ど、どんな夢だった?」
「どんな、っていうか、あの、その」
JK沙耶ちゃんの顔は、もはや夜の闇を上から塗りつぶしてしまいそうなほど真っ赤っかになっていた。
「その、あなたと、エッチなこと、してて……。で、それが私、たぶん初体験で……。うわ、恥ずかし……」
言ってから、沙耶ちゃんは完全に下を向いてしまった。
俺は愕然とする。
もしかして、沙耶ちゃんが言ってた「十七歳の初体験」ってこのことだったの? 俺との初体験を、夢に見た、ってこと?
確かに昨日の夕方、俺はこんな風に彼女に尋ねた。「い、いつ? いつ体験したの⁉」と。
『ドリーマー』は夢で未来を『体験』するものなんだ、と京香さんも、そして沙耶ちゃん本人も言っていた。だから彼女は、「十七歳のとき」と答えたんだ。
そう考えると、昨日沙耶ちゃんが言ったもう一つの言葉も、俺の中でまったく違う意味へと変容を遂げる。
「これが初めてだったらよかったのにな……」
それがもし、自分だけが初体験の未来を先取りするのではなく、俺と一緒にそれを初めて『体験』したかった、という意味だったとしたら……。
切なさとか、罪悪感とか、恋しさとか、いろいろなものが混ざり合って、胸が、きゅっと締め付けられる。
俺は、馬鹿だ。沙耶ちゃんのことを、俺は何も知らなかったんだ。
と、沙耶ちゃんがまた話し出した。
「初めて、ってやっぱり結構痛いんですね。その、血とかも出てたし……。でも、なんだかあたたかくて……。いや、す、すいません、忘れてください。これじゃ変態じゃん……」
今まで生きてきたどの瞬間よりも、沙耶ちゃんのことが愛おしくなった。俺は沙耶ちゃんの手を取ってこちらに抱き寄せた。
「ひゃっ!」
かわいい声を出しやがって。
「沙耶ちゃん、好きだ……」
思わずそう伝えていた。
すると沙耶ちゃんは、きょとんとした顔で、こちらを見上げる。
「私の名前、どうして知ってるんですか?」
しくじった。
いや、ここまで来たらもう、正直に話すべきだろう。
沙耶ちゃんは、会ったばかりの俺に心を開いて、いろいろなことを話してくれたのだから。未来の彼氏として、俺もそれに応えなければいけない。
「俺、未来から来たんだ。四年後の」
「へ?」
沙耶ちゃんが、さらにきょとんとした顔になる。
「いや、ふざけてるわけじゃなくて。その、さっき沙耶ちゃんが見たみたいに、四年後、俺たちは付き合ってて……」
沙耶ちゃんの顔が、また真っ赤になってしまった。
「三年後くらいから、付き合い始めるんだ。おんなじ大学で出会って……」
「え? じゃあ、あなたは、未来から来た、私の彼氏なんですか……?」
「ま、まあ、そうなるかな」
俺が答えた瞬間、さっきと同じように、沙耶ちゃんは俺の腕を飛び出して、すごい勢いで後ずさった。
「だ、ダメです!」
沙耶ちゃんは、かわいい声でそう叫んだ。
「だ、ダメって?」
沙耶ちゃんは立ち上がり、路地裏から出て行こうとする。俺は慌てて沙耶ちゃんの腕を掴み、彼女を引き止めようとする。
「沙耶ちゃん! どうしたの⁉」
沙耶ちゃんは、こちらを向かないままで俺に言う。
「ダメですよ! 私たち、まだ会っちゃ!」
「へ?」
「私、頑張って忘れますから!」
そう言って彼女は俺の手を振りほどき、走り出す。そして路地裏を抜けて、まだ雨の降りしきる通りへ飛び出した。
「沙耶ちゃん!」
雨の中を、彼女は傘もささずに駆けていく。
そうか、と気づく。
ただでさえ沙耶ちゃんは、普通の人よりも未来のことを知りすぎている。俺の存在が、俺という未来が、彼女を縛ってしまってはいけないんだ。
そしてきっと彼女は、これから出会うであろう俺のことも心配してくれているのだろう。彼女が、俺のことを知りすぎてしまってはいけない、と気遣ってくれたんだ。
だから、ここは、このままお別れをするのが、二人にとって一番いいんだ……。
いや、よくねぇよ!
まだあと一つだけ、俺は沙耶ちゃんに伝えたいことがあった。
「ごめん! 俺、全然沙耶ちゃんのこと分かってなかった!」
雨に打たれながら、俺は喉が割れんばかりの大声で叫ぶ。
沙耶ちゃんの背中は、遠ざかり続ける。
振り向いてくれなくてもいい。ただ、俺の声が届いてくれれば。
「四年後、俺、君にひどい事しちゃう! でも、すぐに謝りに行くから! だから……、だから待ってて!」
雨音は、まだ続いていた。そしてついに、沙耶ちゃんの背中は見えなくなった。
俺の声が沙耶ちゃんに届いたかどうか確かめる術を、今の俺はまだ、持っていなかった。
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