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【second contact】第九話 あの人からの宿題
海斗の運転する車は街中を抜けて南の国道を走っていた。しばらく走っていると車窓に大きな海原が姿を見せる。
日曜の昼間の海岸にはウェットスーツを着込んだサーファーたちがいて、サーフボードの上で波待ちする姿をいくつも見つけることができた。
灰色に強い青味を落とした海が、降り注ぐ太陽の光を反射していた。白い波が砂浜に打ち寄せては引いていく。そこに黒い影がいくつも浮かんでいた。
果てなく広がる海と真っ向から対峙している。果敢に波に挑んでいる。
そんな光景が道路の向こうには広がっていた。
久しぶりに海を見た。優介が姿を消してから、私は海を見に行かなかった。彼が将来私と一緒に見たいと――海の見えるところで一緒に年を取りたいと言った話を聞いてからは、余計に海へ行くことができなかった。
海を見たら優介を思い出す。思い出して、また泣くのだ。
隣に彼がいないことを現実まざまざと突きつけられたら、自分を保っていられる自信がなかったからだ。
そう、優介はとても海が好きだった。海に近いところで生まれ育ったからということもある。
でも、それだけではない。彼はサーフィンを趣味にしていた。
私との初デートに遅れてきた理由もサーフィンだった。
電話をしても二時間も捕まらなかった。本当にデートをする気があるのかと疑った。断ってやろうかとも思った。
だけど待ち続けた。二時間後にやっと掛かってきた彼からの『海に入っていて電話に気づかなかった』という言い訳に私はがっくりと肩を落とした。
『ごめん、今すぐに向かうから』
焦ったように言う彼に、私は『事故に遭わないようにゆっくりでいいから』と答えた。
今にして思えば、とんでもないことだと思う。よく二時間も待てたものだ。初デート。私はかなり緊張して約束の時間を待っていた。
だけど、彼を二時間も待ったおかげでその緊張の糸は完全に緩んでいた。
かなり前からデートに着ていく洋服を選んだ。鏡の前に何度も立って、こっちがいいのか、あっちがいいのかといくつも着替えをした。
結局、黄色の花柄のワンピースに白色のカーディガンに決めた。
それくらいワクワクしてこの日を待っていたのに、彼にとっては大した約束ではなかったのか――そんな思いに駆られて、ため息が自然とこぼれた。
約束の時間から二時間も遅刻してきた彼は、車にサーフボードを積んだまま現れた。濡れた髪を必死に拭いてから迎えに来たらしい。ぼさぼさの髪のママの彼は私を見るなり深々と頭を下げた。
『その……こんなこと言っても許してもらえないと思うんだけどさ。朝からずっと緊張しちゃって。落ち着かないから海に行ったんだけどさ。海に入ったら夢中になっちゃって。その、瀬崎さんのことを適当に思っているとか、そういうことじゃ全然なくて……』
必死に言い訳をする彼をこのとき私は全く憎めなかった。むしろかわいいと思ってしまった。
プッ……と自然に噴き出してしまう。
『これからはデートの前に海に行くなら必ず連絡してくださいね』
『は……はいっ』
顔を真っ赤にして返事をした優介のことを、私は今でも忘れられない。照れたように頭を掻いて、困ったように眉尻と目じりを下げた彼のことを、私は今でも――
「同じ目だ」
不意に現実に引き戻された。
運転席にいる海斗の声が、私を現実に呼び戻す。
反射的に海斗を見ると、彼は口元にかすかな笑みを滲ませていた。
その複雑な笑い顔は形容しがたい。
嬉しいのか、悲しいのか。
もしかしたらその両方が微妙なバランスで均衡を保っているのかもしれない。そんな表情だった。
「いつも思っていた。どうして、そんな風に寂しそうに外を見ているのかって。オレはずっと不思議だったんだ」
海斗のその言葉に心臓が淡く波立った。上下する胸の動きがわずかに早くなる。
けれど同時に思った。今の彼の目の方がよほど寂しそうに見える。
私を見ているのに、私を見ていないように感じる彼の目から視線を外せなかった。
「君に会ったら答えが出るんじゃないかと思ったんだ。君と一緒にいれば答えが出るんじゃないかって。ずっと答えを探してた。だけど、やっとわかったよ」
海斗の言葉が誰に向けられているものなのか。
その目と同様、やはり彼の言葉は私に向けられているものではない気がした。
誰か別に伝えたい相手がいるようにも思える。
ううん。彼自身が自分に言い聞かせているのだ、きっと――
じっと見つめるだけの私の視線の先で、海斗はフフッと、か細く笑った。
「美緒」と私の名を呼ぶ。
「なに?」
彼がふうっと息を吐いた。
一拍置いてから、彼は尋ねた。
「『浦島太郎の悲しみの理由はなんだったと思う?』」
「え?」
思いがけない質問だった。
予想だにしていなかったから、即座に答えられなかった。
なぜ今ここで『浦島太郎』の話が出てきたのか。
私が優介に課した宿題がどうして今、ここで回って来たのか。
私が困惑するのも彼の中では想定ずみだったのかもしれない。
特に私の反応を気に掛ける様子なく続けた。
「『一人になったことなのか。老いたことなのか。それとも……』」
まるで誰かの台詞をそのまま言っているかのような、感情の欠片もはらまない抑揚のない声で淡々と口にしていた。
「『乙姫に会えなくなったことなのか』」
そこで再び彼は言葉を区切った。
彼の運転する車が、街道沿いの道の駅に吸い込まれるようにして入って行く。
ほぼ満車状態となっている駐車場の空スペースに滑り込ませるように車を停めてエンジンを切った。
そのまま彼はハンドルをじっと見つめていた。見つめながら、抑えきれない感情を吐き出すかのようにつぶやいた。
「やっとわかったんだ」
座席に深く腰を預けて、彼は目元を覆うように右手を当てがった。
その手が震えている。太腿の上に置かれた彼の左手もわずかに震えていた。
「あの人からの宿題の答えがやっと……」
声までもが震えていた。そんな彼に、私は掛ける言葉が見つからなかった。
覆った目元から透明の雫がポトリと太腿の上に置かれた手の甲に落ちた。甲を伝ってジーパンに滲んでシミを作っていく。
海斗は声を殺して泣いていた。
体を小さく折りたたむようにして――まるで小さな子が嬉しくて泣き崩れるように、口元に笑みを湛えながら、彼は笑って泣いていたのだった。
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