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第十話 悲しい笑み
「あの人からの宿題の答えが……やっと……」
か細い声が震えていた。振り絞るように言葉を吐き出した海斗を、私は黙って見つめることしかできなかった。
こぼれてしまいそうになるおえつを押し殺すように口元を覆った手を伝って、涙が太陽光に照らされながら光っていた。
私は彼の涙をぬぐえなかった。手を伸ばせばすぐそこなのはわかっている。
だけど彼に触れることがすごく怖く感じた。
触れてしまえば壊れてしまいそうだった。
なにかいけないものに触れてしまいそうな気がした。
いや、違う。自分の手が海斗を壊してしまうようで怖くて、怖くて、たまらなかったのだ。
目の前にいる大切な人を、失くしてしまいそうな思いに駆られる。
他でもない。誰でもない。自分の手で壊してしまう――そんな予感に、私は伸ばしかけた手を引っ込めてしまった。
涙がジーパンの上にぽとり、ぽとりと次から次に落ちてはシミを大きくしていた。
静かに太ももを濡らす涙の雫は宝石のように透き通っていた。淀みも曇りもない。
大粒の宝石が彼の目から、次々とこぼれ落ちる。
はばかることなく彼は泣いていた。
ハンドルに額を擦りつけて、大きな体を小さく折りたたむように前屈みにして泣いていた。
ずっとがまんしてきたものが一気に噴き出している。
私にはそう見えた。
「やっとわかった……」
と、呪文のように何度も彼は繰り返した。
なにがわかったのか。
なにがわかってそんなに嬉しいのか――私には欠片もわからなかった。
ひとり置いて行かれているような錯覚が私を襲う。
一緒にいるのに、目の前にいるのに、彼はどこかに行っていて、ここではない時間の中で泣いているように思えてならなかった。
どれくらいの時間をそうしていたのか。涙の雨が降りやんで、ジーパンのシミが丸い月のように浮かびあがる頃、彼は静かにゆっくりと顔をあげた。
「海斗……」
名前を呼ぶと彼はこちらを振り返った。
そして「もう大丈夫だよ」と答えた。
「ごめん、美緒。わけがわからなくて混乱しちゃうよね」
と、先ほどまで大泣きしていた人物とは到底思えないほど冷静で穏やかな声で彼は私に言った。
何事もなかった。
泣いていた事実さえなかったみたいな顔で、彼は私を見つめた。
そして笑う。
その笑みに喜びと悲しみが入り混じる。
喜んでいたのに、ひどく悲しい笑顔で私の中の不安という名の灯がチリッとかすかに揺れた。
「少し……外を歩かないか?」
「うん」
車を降りると、海斗は助手席側にやってきた。
一歩を踏み出すことができずに車の横で立ちすくむ私に手を差しだした。
しわひとつない、つるりと美しいてのひらが真っ直ぐに私の前に差し出されている。
とても長い指だ。
ほっそりとしている。
大きいのに、形は女性の手に似ている。
優介の手とはまったく違う。
優介は節ばっていた。
野球少年だったからと笑って、てのひらにできたいくつものタコを見せてくれた。
そんな優介の手とは180度違う見た目をした手を私は黙って握った。
なめらかだった。
そしてとても冷たかった。
ひんやりとした手がやわらかく私の手を握って、引っ張っていく。
春風が、陽光に照らされてきらめく海斗の淡褐色の髪をやさしくなでる。
私はそんな彼の顔を見上げながら隣を歩いた。
彼は黙ったままだった。黙って私の手を引き、道の駅の駐車場から人がごったがえす建物へと向かった。
朝摘みの野菜や海産物の直売品売り場を眺めて歩く。
だけど、なにひとつ手に取ることはなかった。
レストランの前でメニューを見る。海に隣接した、道の駅オリジナルの海鮮を扱ったどんぶりものや定食の食品サンプルがショーウィンドウの向こうに並んでいる。
「なにか食べようか?」
「お腹は空いてない。それより、ちょっと喉乾いちゃったな」
「そっか。じゃあ、あっちで飲み物でも買おうか」
もう一度売店へ引き返す。
飲み物の陳列された棚を見つけて、海斗の隣に並んだ。
彼がじっとひとつの商品を見つめている。
カフェ・ラテだった。
「あの人はいつもカフェ・ラテを好んで飲んでいた。だけど、飲むたびにまずいって言った。俺には理解できなかった。なんでわざわざ美味くもないものを選ぶのか。なんてむだなことを繰り返す人だろうって」
誰の話をしているのか。
優介のことなのか。
そう思ったら、私の胸に稲妻が走った。
彼がカフェ・ラテのペットボトルを選んで私を見た。
「買ってもいい?」
そう訊いた。
子供がお菓子を買っていいかと親にねだるみたいな顔で、海斗は私を見つめている。
その顔は眉尻が下がっていて、少し悲しげだった。
誰を見ているのだろう。
私を通して、この人は誰と会話をしているのだろう。
そんな疑問がぐるぐるする。
私は彼の質問にどう答えていいのか言葉を見つけ出せなかった。
代わりにミルクティーのペットボトルを選ぶと、迷うことなく引き抜いた。
「私のも買ってくれるなら、許してあげます」
彼は「うん」と、小さくうなずいた。
私の手からするりとミルクティーのボトルを奪ってレジへと歩いて行く。
私はレジに立つ海斗の後姿に目を向けた。
濃紺のシャツにジーパン姿の後ろ姿に優介の面影は少しも重ならない。
優介よりも海斗のほうが身長も十センチくらい高かった。
一八〇センチ近くある海斗のほうが優介よりもずっと肩幅も広い。
背中だって大きいし、足のサイズももちろん違う。
髪の色や質も優介とは違う。
声は海斗のほうがずっと低い。
客観的に見れば見るほど、海斗と優介に同じところは見当たらない。
なのに不思議なことに、海斗には優介を思い起こさせるものがある。
雰囲気が、考え方が、話し方が、優介にとても似ていたのだ。
仕草までもが同じなのだ。
海斗がゆっくりと私のほうを振り返る。
振り返って私を見つけた彼が、柔らかなほほ笑みを浮かべた。
胸に鋭い痛みが走った。
まるで小さい頃に負った傷がうずくかのように――
海斗の顔に優介の面影が追いかけてきて、一瞬重なる。
二人は似すぎていた。あまりにも似すぎて錯覚を起こさせるほどに、だ。
「行こう、美緒」
現実が私を引き戻す。
ここにいるのは私の前からいなくなった昔の恋人ではなく、今、私に寄り添ってくれている人だと。
あの人とは違う低温の声にそう促されて、私はこくりとうなずいた。
売店を出て外を歩くと、風が吹いた。
その風は優介の影を追いかけたあの日の風と同じように、あの頃よりも短くなった私の髪をさらりとさらって行った。
海斗が歩きながらミルクティーを私に手渡した。
「ありがとう」とお礼を告げてから、渡されたミルクティーのふたを開ける。一口だけ喉に押しこんだ。
まろやかな味が口の中に広がる。
同時に「ふぅ……」という吐息が漏れ出た。
私も海斗も自然と無口になっていた。
しばらくそうして歩いていると、海斗がふと足湯施設の前で歩みをとめた。
特産物などが売っている建物とは別に建てられた小さな屋外施設だった。
木製の屋根と石造りの足湯場があるだけの簡素な造りだったが、そこに小さな人だかりができていた。
「足湯……か」
ぽつりと海斗がつぶやいた。
足湯に入りながら道路を挟んで広がる大海原を眺めて、楽しそうに談笑する人々を見つめている。
「入る?」
そう尋ねると、海斗は「なぜ?」と訊き返した。
「羨ましそうな目をしているから。入りたいのかと思って……」
私の答えに彼は「ああ」と、初めて自分の感情に気づいたように声を上げた。
「そうだね。たしかに羨ましい」
そしてほほ笑む。
今日、何度目になるかわからない目じりの下がった物寂しげな顔で――
けれど彼は『入る』とは言わなかった。
楽しそうにしている人たちから視線を逸らすと、また歩き出そうとした。
「入ろうよ」
せっかく来たのだからと私は理由を添えた。
海斗は数秒私を見つめた後で、感情の汲みとれない平坦な声で「そうだね」と答えた。
二人揃って靴を脱いだ。
靴下を押し込んで、木製のベンチに並んで腰を掛ける。
それからゆっくりと白い蒸気を上げる湯に足を差し入れた。
自分が想像していたよりも熱い湯の感触に思わず口から「熱ッ」という言葉が漏れ出ていた。
「湯温四十二度」
戸惑いもせずにすんなりと足を浸けた後で、湯に浸かった足を見つめながらポツリと海斗がつぶやいた。
それから今度は顔を上げて、軒下から覗きこむように外を見た。
晴れ渡る空は海の青を映しこんだ鏡のように澄み渡った水の色だった。
雲一つない空の上には輝く太陽が一つだけあって、柔らかな光を降り注ぎながらほほ笑んでいた。
「気温二十六度」
空の景色から目を離して、彼は私の顔を見る。
そっと私の手を引き寄せて、なにを思ったのか、彼は自分顔へと私の手の甲を寄せた。
海斗の頬が甲に触れる。
足湯に浸かって温まっているのに、海斗の頬はひどく冷たかった。
体温が吸い込まれていくような錯覚を抱いて、私は体を固くした。
「美緒の今の体温36度6分。血圧110の76。平常時心拍数68。心拍上昇中……86……88……92」
「か……いと?」
海斗の口にしている言葉に焦りを感じ始めていた。
彼の見せたことのない一面をまた見たことで、どこかに置き去りにされてしまっていくような感覚が絶え間なく私を襲う。
「まずはオレ達が出会った頃の話をしよう。その後で、全部きみに打ち明けるから」
とても静穏な声色で彼は告げてから、悲しげな笑みをこぼした。
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