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第二十五話 おいてきぼり
「なんでそれ、また買うんだよ?」
そう言うと、彼は棚の上に伸ばした手をとめた。手に取った商品を静かに見つめた後でこちらを見る。
手にした商品は籠に入れられることなく、そのまま宙ぶらりんになっている。
太陽のような黄金色の物が彼の手の中にあった。
それを指さして、もう一度質問した。
「それ、まだ冷蔵庫に残ってるだろう? それなのにどうしてまた買うんだよ?」
すると彼は手にしている太陽のような温かな色をした食べ物にまた目を向けた。
自分とは違う濃い茶色の力強い双眸が、じっとその手の中にある物を捉えていた。
数秒のことだと思う。彼は「そうだったな」と苦い笑みを浮かべたものの、迷わずに籠の中に入れてから、もう一度棚に手を伸ばした。
「ねえ、俺の話ちゃんと聞いてる?」
自分の忠告に耳を傾けようとしない相手の顔を覗きこむようにして再び問いかける。
いつものことだった。
いつものやりとりだった。
家の冷蔵庫の中にちゃんと残っているのは、今朝も確認したからまちがいない。彼も見ているはずだ。
それなのに買う。残っているとわかっていながら買うのだ。
どうせ食べずに捨てるだけなのに、必ず買い物に出たときは買って帰る。
買わねばならない強迫観念に駆られているといわざるをえない。
彼の足は必ずそれがあるところに向かい、絶対に手に取る。
太陽の色をした艶やかな光沢を放つその食べ物を――
「プリンさあ。本当は好きじゃないんだろう?」
そう尋ねると、彼はプリンの並んだ棚をじっと見つめたまま、ほのかに笑んだ。
「そんなことないよ」
彼のそんな返事にますます頭が混乱した。
毎回決まって同じプリンを買う訳ではない。選ぶプリンはいつもバラバラなのだ。
けれど必ず『プリン』という商品を三つ、彼は買っていた。
一つは彼が食べる。もう一つは自分にと。
それなら二つで済むはずなのに、必ず三つだった。
冷蔵庫には食べてもらえないプリンが一つだけ残っている。それも毎回のことだ。
本当にぽつんと一つだけ、牛乳とコーヒーくらいしか入っていない閑散とした冷蔵庫内にさみしげに入っているのを見る度に、自分は彼に「これはどうするつもりなんだ?」と尋ねていた。
しかし彼はいつも寂しげに笑うばかりだった。
賞味期限が来れば黙って淡々と捨てるだけ。
冷蔵庫脇のゴミ箱はプリンだけが積み重なって捨てられている。
封を開けられることもなく、そのまま捨てられるからだ。
「食べ物は大事にしないといけないんじゃないのか?」
質問の切り口をいくら変えようと答えてはくれなかった。
買うときにしろ、食べるときにしろ、捨てるときにしろ、彼は今まで一切自分にその理由を教えてはくれなかった。
だからわからなかったのだ、自分には。どうして彼がそれほどまでにプリンにしゅうちゃくするのか。
嫌いには見えなかった。
けれど本当に好きなのかどうかは疑わしかった。
甘味の強いはずのプリンを口にするとき、彼はひどく苦い顔になる。
底の部分の苦味のある、あの濃い茶色のソースのせいなのかと思った。
しかし、それも違うような気がした。
プリンを食べながら沈思する彼の表情はいつも曇っていた。悲しげで寂しそうで、掛ける言葉に苦慮するような顔で、だ。
そんな彼の顔をまた見ることになるのが嫌で、隣の棚にあるものに手を伸ばした。
「ゼリーでもいいんじゃないの? 喉越しいいし、甘すぎない。父には絶対にこっちだと思うぜ?」
「ほらっ」と、プリンの隣に並ぶ透明感の強いオレンジ色のゼリーを取って渡そうとする自分に、彼は「違うんだ」と小さく頭を振ってみせた。
「彼女はプリンじゃなきゃダメなんだよ」
その瞬間、自分の胸の中で大きな風船が破裂音を立てて弾け飛んだ。
『彼女は』と自分に言った彼の目に映っているものが本当はなんであったのかをやっと理解した。
彼の目に映っている物は黄金色の甘いプリンそのものではない。
滑らかで口の中で優しく溶ける甘いスイーツは、たしかに彼の手の届くところにあった。
けれど彼が手にしている物も、彼が目にしている物も、実際にはそこにないものだったのだ。
彼の前に差し出していたゼリーをゆっくりと棚に戻す。
ひしめきあうプリンのカップを手にする彼の気持ちを、自分は欠片も理解していなかったのだ。
それを知ってしまったら、カラメルだけを口にしたときのような苦みが胸の内に静かに広がった。
「海斗。俺はね」
陳列されたプリンを見つめたまま、彼はこちらに目を向けることなくポツリとこぼした。
こぼれ出た言葉に乗った思いがほろろ……と泣くような、小さな切なさをはらんでいる。
震えているようにも思える彼の声に対して自分ができたのは、彼の言葉を拾うことだけだった。
プリンに伸ばされた手がカップの手前でぴたりととまっていた。
曲がった指先がためらうようにそこで動きをとめる。
「あのときの約束を守れていないんだよ」
ゆっくりと彼がこちらを向いた。
眉尻と目尻が下がった、それこそ今にも泣き出しそうな弱々しくて、消え入りそうな儚い笑顔に、胸の奥の奥がぎゅうぎゅうと締めつけられる感覚が襲う。
そんなはずはないと頭で否定をする。
感覚などないはずだ。
そこにはなにもないはずなのに、ないはずの空虚な胸が彼のその顔を見たときだけは、自分でもギョッとするほど高鳴るように強く動いた気がしたのだ。
「ずっと……おいてきぼりなんだ」
プリンのカップの端に彼の指先が掛かる。
力なく置かれた指先がわずかに揺れている。その小さな振動にプリンの鏡面が揺れる。動いたかどうかさえわからないほどかすかに……
彼の目から雫が落ちる。
唇がキュッと強く結ばれていた。
何も言えなかった。掛ける言葉をはじき出そうとしてもどうしてもできなかった。
おいてきぼり――そう言った彼の言葉の答えがまだ見つからず、固く拳を握りしめた。
空虚な胸に吹く風はひどく冷たくて、彼と同じように唇を噛んだ。
――涙を流すのはなぜだろう?
悔しいのか。
それとも悲しいのか。
切なさに唇を噛みしめる彼になにができるだろう。
どうして自分は泣けないのだろう。
泣いてしまえれば楽になるのだろうか。
涙の分だけ切なさと悲しみが零れ落ちてくれれば、このなんとも奇妙な思いは流れて去ってくれるのだろうか。
それとも泣いただけずっとそこにしずくが溜まって、溜まって、思いも記憶も沈んで、つらさだけが積もり続けるのだろうか。
――わからない。
おいてきぼりだったのはなんなのだろう。
約束だったのか。
彼だったのか。
彼が思うたったひとりの恋人だったのか。
それとも答えを見つけられない俺自身だったのか――
店内に流れるBGMが胸の痛みを加速させる。
それは恋の歌だった。会えない人を思う恋の歌。
切なさと悲しみが積もって視界を滲ませた。
忘れることなどできなかった。
彼の言葉を忘れることなど自分にはできなかった。
『もうずっと約束は守れないんだよ』と――耳を傍立てないと聞こえないほど小さな声で呟いていた彼の声がずっと離れなくて……悲しみに満ちてなお笑う彼の顔を見ないように強く、固くまぶたを閉じた。
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