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第二十六話 ふたりだけの秘密
彼はいつも寂しそうにひとり、コーヒーカップを手にしていた。
カップの中の白い泡を見つめて、ときおり窓の外を眺める。
空の向こうをあおぐように見ては、再びカップを眺める。
そんなことを繰り返した後でようやく冷めてしまっていると思われるものに口をつけていた。
「これ、コーヒーじゃないの?」
そう問う俺に、彼は優しくほほ笑んで「半分正解」と答えた。
「じゃあ、何?」
「カフェ・ラテだよ」
「この泡はなに?」
「牛乳だよ」
「さっき泡立てていたやつはこれなのか?」
不思議そうにカップを見つめる俺に、彼は「そうだよ」と答えた。
「牛乳を温めて泡立てるとこうなる」
「普通にコーヒーに牛乳入れればいいのに……面倒臭いだろう?」
「牛乳を入れただけじゃあカフェオレだよ」
「違いがよくわかんないよ」
俺の返事に彼は「そうだな」と、細い目をさらに細めて笑った。
俺の顔を見た後で、また窓の外を眺める。
その目はいつも遠くて、寂しげで、とても悲しい顔に見えた。
だから思いきって彼に尋ねた。どうしていつもそんなに寂しそうに外を見るのかと――
普段の彼は快活で明瞭で、寂しさなど影も見せない。いつもとびきり元気で大きな声で笑って、笑わせて……そんな彼が大好きだった。
「なぁ、海斗」
彼は半分に減ったカフェ・ラテのカップを置くとこちらを見た。
俺は彼の前の椅子に座って肘をつき、そこに顎を乗せて彼を見つめ返した。彼は俺の目の前で両手を組むと、右指でトントンと時を刻んだ。
「浦島太郎の話を知っているかい?」
真顔でそう尋ねられる。
俺は「はあ?」と半ば呆れるように返事をした。
知らないわけがない。
あまりに有名すぎる童話だ。
童謡だってあるくらい、この国でこの話を知らない人物は皆無だろう。
なのに、なぜわざわざこんなことを聞くのだろう。
「知っているよ」
と、ぶっきらぼうに返した。
「どんな話だったかな?」
さらに尋ねられる。
彼だって知らないわけではないだろうに、自分のことをからかっているのだろうか?
そう思いながら淡々と説明した。
「亀を助けた漁師の浦島太郎が助けた亀に竜宮城に連れて行かれて、乙姫にうつつを抜かした話だろう? それでお土産に玉手箱貰って帰ったはいいけど、自分がいた時代よりも時間が経っていて、開けちゃいけない玉手箱開けたら爺さんになっちゃったっていうオチで終わり。これでいい?」
「なんだそれ?」
俺の説明を聞き終えた彼が目をぱちくりさせた。
「途中の『乙姫にうつつ抜かした』っていうのはどうなんだよ?」
「だってそうだろう?」
「まあ、間違っちゃいないとは思うけどさあ。爺さんになっちゃったっていうオチって言い方もどうなんだよ?」
「どんな話って聞いたのはそっちだろう? 俺、間違った説明してないぜ?」
すると笑いすぎて涙目になった彼は「そうだったな」と、目じりに浮かんだ涙をふき取って、もう一度俺の前で両手を組んだ。
「あれはすごいラブストーリーだって知っているか?」
「誰と誰の?」
「浦島太郎と乙姫のだよ」
「だって、浦島太郎は乙姫に騙されたんだろう?」
「約束を破ったのは浦島のほうだろう?」
「もてなす前に『ここでは時間の流れが普通じゃないから』って、前もって話しておけば、浦島太郎だってバカみたいに長居しなかったと思うぜ?」
俺の説明を真顔で聞いていた彼は「そうだなあ」と深くうなずいた。
それからまた窓の外を見る。彼の目が遠くを見つめていた。
目の前にいる彼がやけに遠く感じる。
おそらくこの顔、この目のせいだ。
「なあ。なんで浦島太郎の話がラブストーリーなんだよ?」
俺は彼をこちらの時間へ引き戻すように投げかけた。そうしなかったらそのまま戻って来ないように思えた。
しかし彼は窓の外を見たままだった。
右の指先だけが一定の時を刻む。時計の秒針に合わせるかのようにトントンと――
「玉手箱にはな。浦島太郎の魂が封じ込まれていたらしいんだよ。浦島は老いない体になっていたらしい」
訥々と彼は告げた。その声は先ほどまでとは打って変わって、清閑なものだった。
普段は大声の彼が弱々しいとも思えるほどの声で告げる内容に、俺はてのひらに預けていた顔を上げた。テーブルの上に両手を置く。
「なんで魂を封じていたんだよ?」
「乙姫が浦島に再び会いたいかららしい。だから老いない体にするために魂を玉手箱に封じて開けさせないように約束させたんだ」
「前もってそうやって説明してやればいいのに」
そう言った俺に、彼は「おまえは現実主義だなあ」と窓の外の景色から、再びこちらを見て小さく笑った。
「伝えなかったら気持ちなんてわからないものだろう? そう教えてくれたのは父だぜ?」
「そうだな。たしかにそのとおりだ」
「で。会えたのかよ、乙姫に?」
「浦島太郎は鶴になって、亀になった乙姫に会えたらしい」
「なんだよ、それ? 人間じゃなくなってるじゃん」
そう告げると、笑う彼の目がさらに細められた。
「お互いに自分たちだって、わかっただけいいさ」
零すように言った彼の顔が寂寥感に満ちていた。
影が差した彼の顔を見た俺の眉は自然と真ん中に寄ってしまっていた。
「なあ、海斗……」
彼は組んでいた両手をテーブルの上に置き、その手をじっと見つめながら俺の名を呼んだ。
俺は返事をせずにただ彼を見つめた。深閑とした時が俺と彼を包み込む。その時間はとても長く思えた。
「浦島太郎の悲しみはなんだったと思う?」
静けさの中で切り込まれたのは、はたしてなんだったのだろう。
彼の唐突な問いかけに、俺は顔を曇らせた。
意味がわからなかった。
彼の意図するところも、質問自体も、なにもかも分析できなかった。
彼はまだ、テーブルの上に置いた自分の手をじっと見つめている。
「『一人になった』ことなのか。『老いた』ことなのか。それとも……」
ごくりとつばを飲み込む。
彼の声音が変わっていた。
低く翳りのある声に、息をするのも忘れそうになった。
「『乙姫に会えなくなった』ことなのか」
彼がゆっくりと顔を上げる。
見たこともないほど険しい顔をしていた。
俺は静寂に飲み込まれるように体を固くした。
言えなかった。
浦島太郎は最終的には乙姫に会えたのだから、それでいいじゃないかと――
彼のその顔を見たら言えなかった。
言ってはいけないような気がした。
それほどまでに彼の顔は険しく厳しいものだった。
彼は組んでいた両手を解き、冷めてしまったカップを包み込むようにした。ハンドルに指先を引っ掛けてカップを持ち上げてから、静かに口をつける。
一口飲んだ後でカップをソーサーの上に戻すと、今度は柔らかな笑みを俺のほうに向けた。
「なぁ、海斗」
「な……んだよ?」
「おまえ『秘密』を守れるか?」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
一拍置いた彼は、とてもゆっくりとした口調でこう続けたのだ。
『俺の『秘密』を守ってくれるか?』と――
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