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第二話 いなくなった彼
7年前の2012年5月30日。
この日のことはまるで昨日のように鮮やかな色彩を放って、私の記憶の中にずっととどまり続けている。
忘れようとすればするほど、感触までもしっかりと思い出せるほどに明確に私の中にあり続ける日なのだ。
嫌な日だった。窓から見上げた空に浮かぶ灰色雲が風に押されているのか、いつもよりもずっと早く流れていた。青白く光る満月をその雲が意地悪をして見えては隠し、隠しては見えを繰り返している。まるでかくれんぼを楽しんで踊っているかのように見えるそれらを、私は睨むように見つめていた。
「美緒。オレ、ちょっと外に走りに行ってくるわ」
同棲していた彼、鈴原優介は玄関口で靴を履きながら、背中を向けたままの姿勢で私に言った。
窓際に座って洗濯ものを畳みながら、ときおり空を見上げていた私は、そんな彼の言葉に「え?」と聞き返した。
「別に……今日はやめてもいいじゃない?」
不安な空に、流れていく雲の速さに、私は怯えていた。嫌な予感が募ってしかたなかった。そんな私の言葉に構うことなく、優介は靴を履き終えると振り返った。
「これは日課だし。それにほら、明日の発表のことを思うとさ。どうにも落ち着かなくて」
上下グレーのスウェットに身を包んだ彼は、茶色の少し癖のある髪を後ろに流すように掻きながら、いつもと同じ人好きのする柔らかな笑みを口元に湛えた。
「だからだよ。明日は大事な学会なんでしょ?」
洗濯ものを畳む手をとめた。玄関にいる優介を引き留めようと私は少し口調を強くした。
彼はというと腕組みをして少し考え込むような素振りをした後で「大丈夫だよ」と笑い返したのだった。
「三キロ、十五分くらいで帰って来るからさ。走りながら、もう一回発表のこと、振り返ってみるよ。ほらっ、世紀の大発表になるわけだし。完全なるアンドロイドの制作に一石を投じるわけだからさ」
「そんなすごい開発をしたのなら、なおさらその情報を狙っている人がいるかもしれないじゃない? 走っているところを後ろから襲われるとか、誘拐されるとか。そんなことになったらどうするのよ?」
「え? 全力で逃げる!」
「もうっ、優介ったら! 私は真面目に言ってるのに!」
大学の研究所でアンドロイドの開発に携わっている優介が明日の学会で発表するのは、人間と変わらない思考と感覚を持つことができる技術についてだ。まだ完全ではないけれど、人間の喜怒哀楽を理解できる人工知能の制作の第1段階はクリアできたのだという。
彼の話は私にはちんぷんかんぷんで、彼の語る未来の人間像や世界なんてちっとも理解できない。ただ、彼がものすごくすごいことを成し遂げようとしているのはわかっている。だからこそ、こんな不安になる夜にでかけてほしくなかったのだ。
そんな思いも知らない彼は「まったく心配性だなあ」なんて少しからかい口調だった。切れ長の瞳をさらにすがめながら私を見て笑う優介に、私はプッと頬を膨らませた。「そんなことないもん」と言い返す。
「じゃあ、待っていてよ。帰りにコンビニでプリン、買って帰ってきてあげるから」
「うん。それなら新作のとろとろカスタードプリンがいいな」
「OK、OK。新作のとろとろカスタードプリンね」
うんうんと優介は首を縦に振った。
「ねえ、ちゃんと帰って来てよ?」
「大丈夫だって。大地震でも起きない限り、帰って来るって。だってさ、俺にはほら、やりたいことがたくさんあるし。それに明日の発表がうまくいったら、美緒に聞いてもらいたいこともあるからさ」
「聞いてもらいたいこと?」
「そう。とっても大事なことだから、これは明日のお楽しみ。ね?」
「もう。いっつもそれなんだから」
私がもう一度頬を膨らませると、優介はあははと白い歯を見せて笑った。
彼が扉に手をかける。振り返って彼は笑った。
プリン楽しみにね――そう言って、大きなひまわりを咲かせたような笑顔を一つ残し、彼の姿は扉の向こうへと消えて行く。
「プリンねえ。甘いものでなんでも許されるって思ってるんだから」
思わず小さな笑いがこぼれる。私の機嫌を直すとき、彼はいつだって甘い物を引き合いに出すからだ。
私は再び奥の部屋に戻った。彼の靴下、下着類。明日の学会に着ていくワイシャツにアイロンも掛けないと――それより先にお風呂の準備をしたほうがいいだろうか? 帰ってきて汗まみれの身体を流したいに違いない。
そうだ、タオルを置きにいったついでにお風呂を沸かそう――そんな風に考えを巡らせながら、再び洗濯物を畳み始めた。
それから五分もしない頃だったと思う。ぐらり……と部屋が大きく揺れたのは――
ハッとし、洗濯ものを片付ける手をとめた。急いで天井を見上げる。
台所の照明がわずかだけれど左右に揺れていた。
「地震っ!?」
そう口走ったとき、先ほどと同じくらいの強さで部屋が揺れた。私は咄嗟にその場にしゃがみ込んだ。這うようにしてリビングの机の下に頭を突っ込む。突然のことに心臓は強く、激しく鼓動していた。
『大地震が起きない限り、帰って来るって』
さっき彼が残した言葉が頭を駆け巡った。
不穏な予感はこの地震だったのか――じっと待つこと十数秒だったと思う。
それでもその時間はひどく長く感じた。大きな揺れは一瞬で、その後小さな揺れはあったもののすぐに収まった。
私はそろりと頭を出して、急いで携帯電話を探した。充電器に刺さった自分の携帯電話を手に取ると、急いで優介に電話をした。
――どうか無事でいて
祈る思いで電話に耳をすりつけた。プルルルと渇いた音を立てるコール音がひどくもどかしい。じっと握る手がわずかに震える。
何度目かのコール音を繰り返した後で、彼が電話口に出た。
「優介! 大丈夫? 今どこなの!?」
そう早口でまくしたてた。
だけど優介は至ってのんびりした口調で『コンビニちかくの細道』と答えた。
『あんまり美緒が心配するからさ。やっぱり切り上げようと思って。どうした? なんかあった?』
「今、ちょっと大きな地震があったの。優介は無事なのね!?」
『ああ……っと。地震? 走っていて気づかなかった……あれ? なんだこれ……』
悠長な口調の彼だったのに、急にその雲行きが怪しくなる。
「なに? なんなの?」
『えっ? まっ……美緒……!』
彼の声色が変わる。焦った声が携帯電話の向こうから私の耳へと叩きつけるように流れてくる。
ノイズが混じった。優介の声が聞きとりにくくなる。彼の私を呼ぶ声がノイズに濁るように掻き消される。
そしてぷっつりと途絶えた。
ツーツーと途切れた音が繰り返される。
「優介! ねぇっ、優介! 返事して! ねえ!」
何度も、何度も名前を叫んだ。
だけど彼の声は聞こえなかった。ううん。声だけじゃない。なにひとつ音を拾えなかった。
私は反射的に携帯電話の表示を見つめた。
ディスプレイは待ち受け画面に戻っていた。
急いで窓辺に立って窓を一気に引き開ける。春のすこし生温かな風がふわりと私の頬をなでた。
窓から外を見る。私達が暮らしているアパートの、道を挟んだ向こう側にコンビニがある。
しかし人の姿は見えない。無論、優介らしい姿も、影も見えなかった。
なにが起きたのかわからなかった。状況判断なんかまるでできなかった。唯一考えられたことは『彼の身』に『何か』が起きたこと、それだけだ。
嫌な汗が一気に噴き出してくるのを拭いもせずに、私は携帯電話のリダイヤルボタンを押した。もう一度優介に電話を掛けるためだ。
「優介! お願い、早く出て!」
耳に強く携帯電話を押し当ててはまた彼の名を呼んだ。コール音を聞きながら、手元に戻して表示を確かめる。これを幾度となく繰り返した。
途切れた電話へ必死につなごうとしていたのだ。
けれど彼の携帯は呼び出し音すら鳴ることなかった。すぐに元の待ち受け画面へと戻されてしまう。
電話が通じない。掛けなおしても、掛けなおしても呼び出し音すらしない。『お客様のおかけになった電話は――』というただ無機質な音声ガイダンスだけが耳障りなほどに流れていくだけだった。
戸締りひとつせずに、財布だけを引っ掴んで駆け出していた。おそらく走れば5分たらずで優介のいたであろう場所へたどり着けるはずだ。このまま部屋でじっと帰りを待っていることも、繋がらない電話にかけ続けるのも無駄だと思った。
玄関で靴を引っ掛ける。
穿き慣れているはずのスニーカーがすんなりと入ってくれなかった。つまずきそうになるのをなんとかこらえながら、つま先をトントンッと廊下に叩きつけるようにしてスニーカーを履くと全力で走った。
エレベーターを待ってなどいられない。
階段を駆け下りた。
一段ずつ降りるのももどかしくて一気に二つずつ飛び降りた。
不安に煽られた心臓が尋常ではないスピードで、けたたましいとさえ思えるほどに走り続けている。
ありったけの力を込めて携帯電話と財布を握りしめ、私は必死で走った。
ただ無事でいてと――そう思ってひた走る。
コンビニに着いた。自動ドアをこじ開けるように中へ入る。一周回って確認したけれど、彼はいない。レジにいたアルバイトらしい若い男性店員に彼のことを尋ねたけれど、「さあ?」という力のない答えが返って来るばかりだった。
お礼も言わずにコンビニを出て、今度は彼がいつも通っている細道を目指した。住宅街の入り組んだ細い道だ。路地に近い。
「優介! 優介!」
何度も名を呼んだ。目を凝らす。足をとめて周りを警戒しながら、私は彼を探した。
そのときだった。不意に足元に硬いモノがコツンと微かな音を立てて当たった。知らずにそれを蹴り飛ばした私は、音をたどるように視線をずらした。
灰色雲から姿を現した満月の光が路地に差し込むと、私の蹴り飛ばした硬いモノの姿を浮き彫りにさせた。クルクルと回りながら鈍色を放つそれに息を飲み込んだ。
足をとめて、ゆっくりと近寄った。
見覚えのあるものに手を伸ばし、静かに拾い上げる。
青いガラス球のストラップがついた銀色の携帯電話だった。ガラス玉は半壊している。どのボタンを押しても反応しなかった。もちろん、電源も入らない。
最後に見たのは彼が出掛けるときだ。そのときは確かに球形だった。
私とおそろいのガラス玉のストラップがここにあるということに、私は背筋がぞっとした。押し寄せる様々な要因に、恐怖のあまりその場から動けくことができなかった。まるで足の甲に太い釘を打ちつけられたみたいに――
――優介!
体にさざ波のような震えが走った。それはやがて大きな震えへと変わっていく。
その場にくずおれ、ぺたりと座り込む私の目から雫がいくつも溢れるように零れ落ちた。
大きく震える両肩を引き寄せて抱きしめる。
誰もいなかった。
優介はいなかった。
――優介!
ちょっと前まで確実にこの場にいたのだという事実だけを残して、彼はこの時を境に忽然と姿を消してしまったのだった。
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