第二十七話 伝えたい言葉

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第二十七話 伝えたい言葉

 今にも雨が降りそうな重たい灰色雲が空を覆っていた。  停車を示すハザードの音が静まり返った車内にカッチン、カッチンと規則的に鳴り続けている。  どれほどの時間をこうしてぼんやり空を見上げながら過ごしているだろう。   ほんの数分だというのに、俺にはひどく長い時間に感じられた。  それもこれも不安が胸を占めるからだ。  行かせてよかったのか。  とめるべきだったのではないのか。  そんなふたつの思いがずっとせめぎ合っていた。  彼が望んだことだ。  だから、とめることなどできはしない。 『最初で最後だ』  そう悲痛な面持ちで言われたら、断りきれなかった。  本来なら連れてくるべきではなかったし、連れて来られるような状態でもなかった。  彼の体をむしばむ病魔は、今この瞬間も彼の命を確実に削り取っているからだ。  彼の病気の治療ができるような施設もなければ、機械もない。  そしてまた彼自身も治療を望んでいない。  彼は生きたいと思っていない。  だからこそ、彼は彼のすべてを俺に伝えた。  思いも記憶もなにもかも。  それがわかっているからこそ彼をとめられなかった。  彼の思いに応えられるのが自分以外にいないことも重々承知の上だった。 『どうして俺が守るんだ? あんたが守ればいいだろう?』  そう言った俺の前で、彼は静かに頭を振った。 『今の俺ではダメなんだ……』  このときすでに彼の体に病魔は巣食っていた。  彼女を守るには時間がないのだと――内側から壊れていく自分を、彼は確実に感じ取っていた。 『それでも行くの? どうしても?』  そう尋ねた俺に、彼は花を咲かせるようにほがらかに笑って見せた。 『これが最初で最後だ』と。  今を逃しては二度と彼女に会えなくなるだろうと。 『彼女はたぶんわからないよ』  ハッキリと予想できる事実を彼に突きつけてもなお、彼は引かなかった。 『それでもいい。生きているうちに彼女に会えるなら……それでいいんだ』  俺には理解できなかった。  なぜそこまでして会いたいのか――  どうして命を懸ける必要性があるのか。  だって彼女はわからない。  彼がどこの誰なのかをわかってもらえないのに、どうして会いに行くのか、行きたいのか―― 『きっと……いつかおまえにもわかるさ……』  そう言った彼の顔は晴れ晴れとしていた。 『それで死ぬのが早くなってもいいの?』  すると彼は目じりと眉尻を下げて、少し困ったように笑った。  困った?   いや、悲しかったのか。   この感情の入り混じった顔を分析するのは苦手だった。  悲しみ、寂しさ、歓び、怒り……人間の持つ喜怒哀楽をパーセンテージにするのはひどくむずかしい。  明瞭とした数字にならず、微妙にブレるのだ。  彼は特によくそういう表情を作った。  まるで俺に数字で割合を出させないようにしているみたいだった。 『俺はとうの昔に死んでいるよ。あのときにね』   口元に小さく笑みを含んで彼は言った。  やっぱり言っていることがわからない。 『なに言ってんだよ? 生きているだろう?』  そう問う俺の頭に、彼は大きな手を乗せた。  ずいぶん細くなった。この手も、この腕も。  頬もこけた。  足も昔より不自由になった。  目じりのしわも増えた気がするし、深くなったようにも見える。  命の灯が消えてしまわないかと、俺はジリジリと焦っている。  優しく包んでくれるこの温かな手から、いつ温もりが消えてしまうのか――   それを考えると焦ってしまうのだ。  なぜ焦るのか。  その感情の意味はまだ自分にはわからないのだけれど。 『そうだな。俺は物理的に言えば、たしかに生きている。でも死んだんだ。ここが、な』  そう言って彼は俺の胸の部分を左手の人差し指で二度トントンと打った。 『わからない。心臓は動いているじゃないか』   首を振り、彼を見上げて答える。  だけど彼は『大丈夫』とつぶやいた。   『それも……いつかきっとわかるからさ』  そう言って彼は空を見上げた。  しみひとつないレース地のカーテンの向こうに、抜けるような青空が広がっていた。  雲ひとつなく晴れあがるブルースカイを見上げる彼の目は、はるか遠くを見つめていた。  その空の向こうを追うようにじっと見つめている彼の横顔を、風が駆け抜ける。 『さぁ、行こう』  彼はそう言って自分を促した。  彼と見上げた空は雲一つない晴天だった。  なのに今は雨が降りそうな灰色雲だった。  たった数時間前のことなのに、こんなにも空が違う。 ――ちゃんと彼女に会えたのだろうか?  ここからは彼の姿は見えない。  目的の場所から程遠い場所に車を停めたから、見えるわけがない。  見えない場所で待機するように指示を出したのは他の誰でもなく彼自身だ。  腕時計を見た。  五分だ。  五分が経過していた。 「限界だ」  運転席の扉を開けようと手を掛けたそのときだった。  角を曲がってやってくる人影にその手をとめた。  黒味の強い灰色のフードを目深に被った男が駆け寄ってくる。フードのせいで表情は見えない。  その人物はまっすぐにこちらに走ってくると、後部座席の扉を勢いよく開けた。  それから身を滑らせるように乗り込むと、後部座席の上に勢いよく倒れ込んだ。  助手席に置いたバッグから急いでガラス瓶を取り出した。  真っ赤な血の色をした丸状のカプセルがテラテラと光っている。  もう三分の一程度しか残っていない。  蓋を開けて、そのうちの一錠を取出すと、振り返って後部席で荒い息を刻む彼を見た。  ひったくるようにしてフードを脱がせる。  彼の顔は紅潮していた。耳たぶまで赤くなって、額には大きな汗が浮かんでいた。  激しく上下に動く胸を固く両手で掴むように抑え込む彼の唇が、紫色に変色していた。  乾燥した唇にカプセルを近づける。 「飲んで」  そう言うと、彼はきつくつぶっていたまぶたをほんの少し開けた。  黒目の部分まで真っ赤に充血していた。 「楽になる」  もう一度声を掛けると、彼がゆっくりと舌を出した。  ブツブツと白い物が浮きだった舌先の上にカプセルを乗せると、舌先を口腔内に収めてゆっくりとそれを飲みこんだ。  彼の額に触れる。 「体温42度。血圧200の109。心拍数」 「数えなくていい……もう……大丈夫だ」  彼の手が俺の手を掴んで引き離した。 「でも……」 「おまえはこんなことをしなくていい……しちゃいけないんだ」  彼にそう諭され、唇を噛みしめる。  俯くオレの手を両手で握りしめると、彼は柔らかな陽光のような笑みを湛えてみせた。 「それより聞いてくれ……」  顔色が桃色になって、徐々にいつもの彼へと戻っていく。  その中で、彼はそう自分を見上げながら言った。  体温も血圧も通常へと戻っていく。  呼吸も少しずつ平常を取り戻す。  真っ赤だった目が白と黒のバランスのいいものになっていった。 「なんだよ?」  そう問うと、彼は「会えたよ」と笑った。  彼の目じりについた涙の筋に、また雫がこぼれ落ちた。  彼の目から溢れた雫が、顔の輪郭に沿って落ちていく。 「会えたんだ」  これ以上のしあわせがあるだろうかと……彼は続けながら笑って泣いた。  そんな彼の肩に手を置くと、俺は大きくうなずいた。 「よかったな……」  それしか言えなかった。  まだこのときの俺にはわからなかったから。  なぜ笑ったのか。  なぜ泣いたのか。  俺にはその感情が理解できなかったから。  でも、やっとわかったのだ。  あなたはこう言ったよね? 『いつかわかるだろうよ』  あなたの言葉通り、やっとわかるようになった。  長い時間を費やした。長すぎた。  けれどやっと見つけることができたのだ、答えを――  今ならきっと言えるだろう。 『願いが叶ってしあわせだよな』 と、きっと心から言える。その自信がある。  彼の気持ちがわかった今なら胸を張って『な? わかっただろう?』と軽口も添えて言えるのに。  それを伝えたいあなたはもう――  
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