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第二十八話 吸い込まれたつぶやき
世界はくすんだ藍色に包まれていた。
白く発色してまたたく星々と、それに寄り添うように輝く月の光だけが塵ひとつない床に長い光の帯を作っている。
窓枠の影が鏡のような床面に映る。
物が置かれていない広いフローリングは、その一か所を除いてすべて闇色に沈んでいるのだ。
まるで自分の心のように――
彼女を送り届けた後で自分の部屋に戻ってきていた俺は、部屋の照明をつけずに自室のベッドに深く腰を掛けた。
まる一日彼女と過ごしたのは、今日が初めてだった。
スプリングのよく利いた、クッション性の高いベッドが体重で一度沈む。その後ゆっくりと、今度は跳ね上げるように俺の体を押し上げた。
ふうっ……
長い息を吐く。
すごく体が重い。
片手で顔を覆う。
自然と丸くなった背に疲労感が圧し掛かるように襲ってくる。
いや、疲労など本来なら感じるものではないはずなのに、ひどく疲れた感覚に苛まされる。
楽しくなかったわけではない。
むしろ楽しすぎたのだ。
喜びに満ち溢れた世界はあまりにもまぶしくて、夢のようだった。
抜けるようなスカイブルーの空も、太陽が沈んでいく夕焼け色に包まれた風景も、魔法にかかったように何もかもが美しかった。
だからこそ、この一瞬を記憶の中に閉じ込めたくなった。
そこでほほ笑む彼女ごと――
それでも後悔が胸を締めつける。
ぐっ……と掴むようにして胸元を握りしめた。
苦しさが込み上げる。
胸が鉛のように重たい。
床についた足がその加重でぐんっと沈みこむような錯覚を覚える。
――バカだ、俺は。
自嘲の笑みが漏れた。
乱暴に前髪を掴んで握りしめる。指の隙間から藍色に染まる自分の前髪が映って見えた。
強く歯を食いしばれば、奥歯がこすれる音を立てた。
重みの加わったベッドのスプリングが再びギシッと軋んだ。
ダメだと思ったし、これではいけないとも思ったのだ。
それでも引き返せなかった。
どんなに自分を制しようとしてもできなかった。
彼女の言葉がふと脳裏によぎった。
『感情はカッとなったときにとまらなくなるものじゃないんですよ?』
彼女が知らない男に乱暴されそうになったとき、ついカッとして気持ちを抑制できなかった。
あのとき初めて知ったのは、怒りという感情はコントロールできないものであるということを。
だけど違った。
彼女の言葉の意味を俺はこのとき初めて理解した。
誰かを狂おしいほど思う気持ちもとめられないものであることを――
もう一度強く胸元をきつく握りしめる。麻混素材のサックス色のシャツが夜を濃く映し込んで灰色に変わっていた。
握りしめた胸の向こうには父の思いが宿っている。
彼女に近づけば近づくほど溢れ出す。
初めは見守るだけでよかったはずだった。
遠くから彼女のしあわせを願い、望み、彼女の笑顔を見ることができれば、それでよかったはずだった。
けれど彼女は笑わなかった。
どんなに待っても彼女は笑わなかったのだ。
彼を失ってから、彼女から笑顔が消えて、二度と戻らなかった。
暮れる悲しい横顔に走り出したのは自分だったのか、それとも彼の思いだったのかは、今はもうわからない。
俺があのとき怖れることなく彼女に伝えていれば、おそらくこんなことにはならなかった。
選択を誤ったのは他でもない俺自身だ。
それなのに、そんな事実に蓋をした。
ほほ笑む彼女を見たくて近づいてしまった。
彼女の泣き顔をとめたくて頬に触れた。
太陽のようにまぶしい笑顔を見たくて彼女を抱き上げた。
彼女に触れたくて。
もどかしいこの数十cmの縮められない距離をなくしたくてキスをした。
触れた彼女の肌は柔らかく、そして温かかった。
もっと知りたい。
もっと触れていたい。
もっと、もっと近づきたい――!
必死でそれらの感情を飲み込んだ。
口を開けば溢れ出してしまうとわかったから。
だから必死で己を抑制した。
これは誰の思いなのだろう?
俺のものなのか。
それとも彼のものなのか。
彼女を好きだという気持ちが本物なのか。
彼女を悲しみに陥れている。
彼女に触れる権利など俺にはない。
それでも振り切ってしまったのは心に宿る彼の思いに抗えなかったからなのか。
どんなに考えても、やはりわからない。
中途半端な思いを抱いたまま彼女に愛を囁き、彼女に触れた。
その後悔が胸を締め付ける。
『もしも彼女が他の男を好きになったらどうするんだ?』
不意に自分が父に問いかけたときのことを思い出した。
ハッとして顔を上げる。
ベッドサイドにあるローチェストの引出しを静かに開けた。
白い布の上に半壊したガラス玉が光っている。
もうずっと昔のことだ。
まだ俺が彼と彼女の悲しい恋のいきさつを聞いたばかりの頃の話だ。
彼はあのとき、自分の手の上にそれを乗せて寂しげにほほ笑んだ。
『彼女がしあわせならそれでいいんだ』
自分にそれを握らせた彼の言葉は心からのものだったのだろうか。
自分の命を賭けてまで彼女を守ろうとする彼が、他の誰かに心惹かれる彼女を望めるものだろうか。
『俺はもう彼女をしあわせにはできないから』
この部屋を覆う色のように、顔をくすませてほほ笑む彼が手を離すと、ガラス球はそんな彼の手を追うようにかすかに転がった。
けれどそれが逃げないように彼は自分の手を織り込むようにして包み込んだ。
グッと力強く自分の握りこぶしごとそれを強く握りしめる。
『思い出にさせるんだ、俺のことは……』
彼女の中の彼への思いが消えて、思い出の中の人、過去の人となることを望むと彼は言った。その方法しか、胸の内で今なお強く燃える彼女を思う気持ちを昇華させることができないからと――
そのためにはどうしても彼女にはしあわせな人生を送ってもらわねばならない。
女性として他の誰かを好きになり、愛し合い、心安らかに穏やかに生きていってくれることが必要だと、彼は言った。
彼女が望むままに生きてほしいが、そのためには自分の存在は足かせになってしまう。
だから自分のことを思い出にさせる必要があるのだとも、まるで己自身に言い聞かせるように強く俺の手を握りしめながら、彼は言って聞かせたのだ。
『思い出にならなかったら?』
彼女が彼を思い出にすることができず、彼を思い続けたらどうするのかと問う。
彼は顔を上げて、俺の頭を優しく撫でた。
俺の頭をゆっくりと撫でる彼の手はとても大きかった。
『そのときはおまえに託すよ』
彼は笑っていた。その笑みの意味がわからなかった。
わからないことだらけで気が狂いそうだった。
答えが聞きたい。
なのに聞けない。
だから、ずっと自分の中で問いかけを繰り返し、答えを探し続けている。
それでも――
「できないよ……」
彼に託されたガラス球に向かって絞り出すようにそう告げた。
できないのだ、自分には。
彼の思いを知っている。
いや、それ以上だ。
彼の思いがこの胸にある以上、彼の思いに込められた彼の願いを実現できない。
「オレにはできないんだよ、父……」
両手で顔を覆いこむ。
もう自分の髪を優しく撫でるその人は傍にいない。
わかっている。
彼の思いも彼女の思いも、俺は痛いほど全部わかっている。
わかっているけれど……
『おまえが全てを終わらせるんだ』
彼の悲しい声だけが空っぽの部屋の中に反響するように聞こえる。その声にただ返した。
「オレには……できないよ」
と、もう一度言葉を絞り出す。
何度もそう繰り返しつぶやいた俺の声だけが闇色の世界に静かに吸い込まれていった。
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