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【forth contact】 第二十九話 迷いの先へ
海斗の語ったことへの理解が追いつかなかった。
海斗と優介に接点があることは間違いない。
だけど、なぜ海斗が優介のことを『父』と呼ぶのか。
彼が言う『心に彼の思いが宿っている』という意味がなにを示しているのかがわからなかった。
「言っていることが理解できない……」
正直に答えて首を振る。
私の開いていた手を海斗は包み込むようにゆっくりと握って「そうだね」とつぶやいた。
てのひらの中に握りこまれた青いガラス細工が、その存在を強烈にアピールする。
『ここにいるんだ』と自己主張するガラス細工の冷たく固い感触に引きずられるように胸の中が冷たくなりそうだった。
「あなたは優介のことも、私のことも知っていたのにずっと黙ってた。なのに、なんで今さら話すことにしたの?」
どうしても海斗の口から答えが欲しくて、震える声を絞り出すように私は彼に尋ねた。
なぜ、今になって優介の話などするのだろうか。
優介が失踪してから七年も経っている。
海斗と出会ってからは五年だ。
これまでずっと隠し続けてきた秘密を、どうしてここで私に教える必要があったのだろう。
黙っていれば済んだことだ。
知らなければよかったことだ。
海斗はなにを終わらせたいのだろう。
私との関係なのか。
秘密を抱え続けて来たことなのか。
けれど彼は私の質問にハッキリとは答えなかった。ただ切なげにほほ笑むとこう続けた。
「俺は鈴原優介という人物をもちろん知っていた。そしてこのガラスの欠片も直に彼から託された。それも七年よりもっと前に、ね」
海斗の言葉にさらに言葉を失った。
めまいを起こしそうになるほど強烈に思考が駆け巡る。
思考に付随して記憶がぐるぐるととぐろを巻くかのように頭の中を巡っていく。
流れていく灰色雲。
青白い月。
夜の闇。
そして……
『えっ? まっ……美緒……!』
優介との最後の会話。
「ウソよ……そんなのウソよっ……! 七年よりもっと前って……だって彼は七年前にいなくなったのよ! それなのに、なんでそれよりも前にこれを託されるの!? そんなのって……」
あるわけがなかった。
もしも海斗の言うことが妄想ではなく、すべて真実だとするのなら、優介が失踪したのは七年前よりも前に、優介は存在していたということになる。
七年前の五月三十日に忽然と姿を消した優介が残したガラス球の片割れをどうしてそれより前に受け取ることができると言うのか――
納得できなかった私はグッと強い目で海斗を見つめた。
「落ち着いて、美緒。悪かった。みんな見てるから、ひとまずはお湯から出よう。靴を履いておいで。俺は先に車で待っているから」
『そうしたら続きを話そう』
そう言ってトントン……と優しく私の握りこぶしを叩くと、海斗はゆっくりとお湯から足を抜いた。濡れた素足のまま自分の靴を持ってスタスタと歩いて行ってしまう。
周りを見る。
海斗の言うように、いきなり痴話喧嘩を始めたカップルに対して驚いている人、剣呑な瞳を向ける人、興味本位にちらちらとこちらを伺う人たちが確かにいて、私を見つめていた。
けれどそんなことに構っていられなかった。
海斗を追いかけるように私もお湯から足を出して、濡れたまま靴を持って急いで追いかける。
靴を履いてなどいられない。
待っていられるわけなかった。
私の前を、後ろを見ずに歩く海斗の背中を追いかけた。
アスファルトは熱を帯びており、素足の裏をほどよく焼いた。
ときおり細かな砂利が足裏に小さな痛みを残したが、それすらも気にせず私は彼を追いかけていた。
海斗が運転席に乗り込むと、すぐに助手席側に滑り込むように座った。少し走ったせいだろうか、呼吸が小さく荒れていた。
ゆっくりと呼吸を落ち着かせてから、私はもう一度海斗を見た。
すると海斗は「いい?」と尋ねた。
おそらく『続きを話してもいいか?』という意味なのだろう。
私は彼の薄茶色の瞳を見つめ返して『うん』と無言でうなずいた。
「これから話すことはきっと君には到底信じられない話になると思う。途方もない時間を彷徨うことにもなると思う。でも、信じてほしい。これから話すことはすべて嘘偽りのない事実だ。そしてこれを聞けば、君はいくつかの『選択』を迫られることになるだろう。それでも……君は続きを聞くかい?」
淀みのない瞳が私を射抜くように見つめていた。
海斗自身の声には力強さがあった。
彼の言葉にはもう一切の迷いはない。
ハッキリとした口調にも彼の意思が宿っている。
そう。逃げない意思。
そんな強さが宿っている。
それなのに彼は私に『それでも続きを聞くかい?』と、私をおもんばかるように尋ねるのだ。
「どうして私に返事を聞くの? 海斗の中で、もう答えは出ているんでしょう?」
私の答えに彼は長い睫毛を伏せるようにしてほほ笑んだ。
たとえ私が『聞きたくない』と言っても、彼の中ではもうすでに『話す』ことが決定していると確信していた。
それほどに彼の瞳は揺るがなかった。
それは私を迎えに来たときからまったく変わっていないのだから――
『すべてを終わらせに行こう』
そう言ったあのときから少しも変わっていないのだ。
海斗はそれを裏付けるように『うん』と頷いて続けた。
「出てる。でも、もうこれしかないんだ。全部話さないことには、先には進めない。オレも、君も……そして」
彼はそこで一旦言葉を区切り、短い沈黙の後、ハッキリと私に告げた。
「『鈴原優介』、彼もね……」
と、海斗の口から告げられたあの人の名前に私の心臓はキュウッと一気に縮み上がった。
息をするのも忘れてしまう。
心臓から流れる血の勢いが増加したような気がした。
全身を走り回るその速度に、くらくらとめまいが起きてしまいそうだった。
それでも私はなんとか前を見続けた。
聞かなければならないと私のすべてが告げていた。
そうでなければ海斗の言うとおり、私は完全な意味で前を向くことができないだろう。
こんな中途半端な気持ちを抱えたまま、海斗と一緒にいてはいけない。
海斗を欺いたまま、彼を騙したまましあわせになろうとしてはいけない。
ここで間違いを正さないといけない。
そのために私は前以外を見てはいけなかった。
今、目の前にいる海斗から目を背けてはいけないのだ。
「俺が彼と会ったのはね。たしかに二十年以上前の話になるんだ。でも出会ったのはもう少しだけ近い未来」
海斗は口にする。優介との出会いから今に至るまでの二十年以上に渡る長い物語を――
「美緒、俺はね……」
海斗は一度ゆっくりとまぶたを伏せた。長い睫が小さく震える。
再びまぶたを開くと、まっすぐに視線を私に向けた。
ひとつ、ひとつの単語を噛みしめるように言葉を落とした。
『今から百二十年先の未来から来たんだ』というその一言を――
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