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第三十話 帰る場所、いるべき場所
俺が過去に戻ることになる2139年4月30日のことだ。
俺のことを息子と呼ぶ彼はそれまで断続的に様々な教育を施していた。
彼に拾われるまで教育というものから切り離されていた俺は、与えられるものをすべて素直に受け取った。
同時に、それに付随する感情を学んでいくという作業にも明け暮れることになった。
なぜそんな作業が必要なのかと父に問えば、生きていくために必要だと彼は答えた。
生きていくために言語、学問、社会ルール、マナーなど、多岐に渡って必要なのだと彼は俺に何度となく伝えていた。
膨大な情報を来る日も、来る日も入れ込んで、精査する作業を繰り返すことに反抗などしなかった。
父が言うのだから。
必要だから。
だけど根本的なことはわからないままだった。
生きていくためとはなんなのか。
俺にとってはとても漠然としたことだった。
実際になにが『生きる』ということなのかという裏付けは、大量の情報からは得られなかった。
『生きる』ことと『動く』こととの決定的な差がなんなのか。
俺はずっと理解できないでいた。
そんな自分に彼は根気よく付き合っていた。
何も知らない真っ新な赤子と向き合う父親そのものである彼に対して生まれたこの感情の名が『好意』であるということは学んだ。
だがしかし疑問が残った。
『好意』は発展するということだ。
それこそが『愛』なのだと父は言った。
だけど彼はさらに混乱するようなことを言ったのだ。
「愛には種類があるんだ」と――
首を捻るしかない俺に、彼はいつも苦い笑みを残していた。
彼と出会って五年の歳月が流れようとしていたが、彼は一向に俺が抱く疑問について教えてはくれなかった。
何度も、何度も繰り返し『愛とはなんなのか』『愛の種類とはなんなのか』と問うところで、彼はほほ笑みしかくれなかった。
「俺が父を思っているこの気持ちは『愛』でいいんだよな?」
「ああ、たぶんそれだ」
「たぶんってなんだよ? 曖昧だな」
「まあ、あれだ。『本物の愛には覚悟が必要になる』ってことは知っていてもいいかもしれないな」
そう言って父は顎にたくわえた白い毛が混じった髭をボリボリと掻きむしった。
そんな彼をじっと見つめる。
愛の話をするとき、彼は決まって遠くを見る。
決して俺と目を合わそうとはしない。
なにを思っているのかを俺が分析してみても、その感情を示す数値は実に曖昧だった。
寂しさ、悲しさ、恋しさ……どれもが複雑に絡んでいるかのようにハッキリとした数値が出ない。
どれが一番強い感情なのかがハッキリと出て来ないから、結果的に『エラー』となってしまうのだ。
そうなると俺には理解が及ばなかった。数値化できないこともその一つの要因だが、感情を特定できないのも俺を混乱させていた。
「どうやって学べばいいんだ、愛なんて」
そんなぼやきにも似たつぶやきに父はフッ……とその表情を緩ませた。
眉尻と目じりが下がる独特の笑い方を、何度も擦り込むように見ていた俺は『またこの顔だ』と反射的に眉根を寄せた。
この顔が語る言葉はいつも決まっていたからだ。
「そのうちわかるさ」
いつかはきっと――そんな含みを持たせた言葉にいつも困惑した。
そんなときが来るのかと疑問ばかりが募ってしまうからだ。
もっと具体的な解決策が欲しいのに、彼はどんなに問いただしても『そればかりは俺じゃ無理だ』と笑ってはぐらかすばかりだった。
彼がどうしてこれほどまでに『愛』に拘り続けていたのか――それは今なら理解ができる。
自然破壊による温暖化が進んで、酸性の海が世界を覆うこの時代。
濃度の高いスモッグが大気となって世界を包み、頻繁に酸性雨が降り注ぐ大地では人が口にする植物を栽培することが困難となった。
人口が減少しても食糧難は解消されることなく、少子化はさらに進んだ。
自らの子孫を残すために、また国の滅亡、いや世界の滅亡を防ぐために人類が取った道は自らの命の期限を延ばす措置だった。
それまで『死の病』とされていた病原菌は根絶、もしくは治療可能になり、病原菌による致死率はほぼゼロとなった。
この時代、人の平均寿命は二百歳となり、老化を促す遺伝子の組み換え手術によって、老化現象は抑えられることになった。
しかし本来少子化を食い止めるために発案された措置は寿命を延ばす利を得た代償に、生殖機能を欠損するという相反した結果を生むこととなってしまったのだ。
科学的技術を加えなければ自然に人口を増やせなくなったことで、欠損のない者から得られた細胞を人為的に結合して作り出される『人工人間(アーティフィシャルヒューマン)』が増加しつつあった。
『感情』の真なる意味を理解できなくなった世界は荒廃を辿る一方なのだと父は俺に語って聞かせ続けていた。
しかし、当時の俺にはそれがわからなかった。
彼は『感情』に拘り、俺にそれを教え込もうとしている。
感情の欠落した『モノ』である俺に、なにかの可能性を彼は見出そうとしているのかもしれない。
それくらいの理解はできても、その本質はわからない。
だからこそ疑問が残るのだ。
「でも、それならなんであんたはその手術を受けないんだ?」
大概の人間は幼少ベース、もしくは二十歳代までに寿命を延ばすための遺伝子操作の手術を受けることが義務付けされていた。
しかし父の体に手術を施された結果はない。
それこそ遺伝子レベルでの操作は一切されていない『生身』の人間なのだった。
「俺には『拒否権』があるからさ。俺がその拒否権を行使している限り、国であろうと手出しはできないのさ」
「なんで?」
「俺がこの世界にとっては『特別な人間』だからさ」
「生殖機能が残っているから?」
「それもある。だけど、もっと『特別な理由を持った人間』だからさ」
「意味がわからない」
「そうだな。今はまだ『知るべきとき』じゃないのさ」
彼が言い終ったときだった。俺達の会話に割り込むように通信が入った。
相手は父と年齢の変わらない男で、こちらも白衣を纏っている。
技術者である知的、かつ清潔感のある顔の男は、その特徴的な銀縁の眼鏡を押し上げて「やあ」と父へモニター越しに挨拶をして笑った。
二重の愛らしい目は俺と同じく淡い茶色で、淡褐色のつややかな髪をしていた。
そんな彼を見ると父は嬉しそうに笑った。
彼の名前を呼ぶ。
「やあ、英二。今日はなにかな?」
旧知の仲である相手に父が尋ねると、『英二』と呼ばれた男はちらりと自分にも目を向けてから笑顔をやめて、真顔に戻った。
「一カ月後、帰れることになると思います」
その言葉に父の口元から笑みが消え失せた。
濃い茶色の目が鋭く輝き、モニターを見据える。
机に置かれた手がいつのまにか握りこまれ、それはフルフルと小さく揺れ動いているようにも見えた。
「そう……か……ありがとう」
「また連絡します」
そう言ってモニターから男の姿が消えると、父は天井に顎を向けて、握りこんでいた拳を額に押し当てた。
全身が打ち震えていた。
彼の心拍数が上昇している。
体が熱を帯びているのがわかる。
「父? どこへ帰るんだ?」
そう問いかける自分に彼はそのままの姿勢で大きく息を吸い込んだ。
その後、小さく笑う。
そしてゆっくりとこちらを向いたその顔はいつもの曖昧さとは違う、まったくの別人に見えるほど冴えわたる笑顔になっていた。
「俺の……本来いるべき場所さ」
このことをきっかけに彼は命の期限を延ばすための手術を受けることを申請し、そのための精密検査を受けることになる。
けれど、もうこのときにはすでに手遅れだった。
手術は受けられない。
病に侵されている体である。
そのことを彼自身が知るのは、この話から一週間後のことだった。
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