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第三十二話 揺るがない意思
一週間後、俺は父と共にある研究室に出向いた。
精密検査の結果を聞いたあとのことだ。
俺はまだこのとき、父の精密検査の結果は知らなかった。また彼が何の研究をしている場所に向かっているのかも知らされていなかった。
移動する車内はいつになくしんと静まり返っていた。そんな車内から見上げる薄暗い灰色雲が風に煽られるようにして、いくつもの雲が不穏に流れて去っていた。
きっと数時間後にはまた雨が降るのだろう。
黒味の強い雲をぼんやりと見上げるうちに車は目的地へと到着した。
到着すると、父は黙って車を降りた。
元は白い建物だったのだろう。
四角形の建物の外壁には雨垂れの黒い筋がいくつもできていて、黒と灰色に滲んで変色してしまっていた。
正面に玄関らしき鋼色の扉が一つきりあるだけで窓はない。
建物の周りは閑散としている。
静まり返った建物がいくつか遠目に見えるだけで、周りは瓦礫の山である。
よくもこんなところに研究所を建てたものだ。
ひっそりと建つそれを見上げながら、崩れたコンクリートの足場の向こうへと淡々と歩を刻んだ。
扉の前まで移動すると、それは音もなく開いた。
扉の向こうから溢れるほどの白色電灯の明かりが飛び込んできた。
壁は真っ白で、装いは父の研究所とさほど変わらない。
その中央では、白衣に身を包んだ父と同じ年齢とおぼしきひとりの男が、黒の背もたれのある椅子に腰かけて自分たちを待っていた。
先日、父に『帰れると思います』という通信を寄越した男『英二』だ。
通信で見るよりもずっと線の細い男で、白衣の下の濃紺のハイネックシャツがさらに彼の細さを際立たせているようにも感じた。
ゆっくりと立ち上がる英二の身長は自分とさして変わらなかった。
ひょろりと高く細い彼は女性のような白い滑らかな手を差しだすと、挨拶も早々に入ってきた自分たちを向かいの椅子に腰かけるように促した。
彼が座っていた椅子同様、背もたれのある黒椅子に腰かけるのを確かめてから、彼は奥からプラスチックの白いカップを三つ持ってきた。
ひとつずつ自分たちの前に置く。
白い泡のようなものが入っているカップからは湯気が立ちのぼっている。
訝しげに見つめる自分に、父は鼻を寄せた後でそれを口に含んで見せた。
『安全である』ことを証明してみせる父を見つめる自分に、英二も微笑みを浮かべた。
「毒じゃないですから、君も飲んでみたらどうです?」
英二に促されて、俺はそれに口をつけた。
きめ細かい泡の後で苦味の強い液体が舌を刺激した。
「不味い。これ、薬?」
苦みに顔を歪めてカップを押し戻す。
そんな俺を見た英二と父は互いに見合った後、一斉に笑い出した。
「違うよ、カフェ・ラテだ。泡の下の液体はエスプレッソ。コーヒーより苦いからな。おまえにはまだ早かったか」
「それもそうだけど……この泡はなに?」
「牛乳。牛の乳だ」
「生?」
「まあ、殺菌はしてありますが。これもなかなか手に入らない高級品ですよ」
そう言って父と英二は交互に言ってはカラカラと大きく口元を開いて笑った。
そんな彼に英二は「『彼女から教えてもらった味』なのに、不味いって言われちゃいましたよ」と父に言う。
「本当だな……」
それを聞くと、父はまた眉尻と目じりを下げて小さく笑った。
その視線は白いカップに向けられていて、長いまつげが目を半分隠してしまっていた。
小さな沈黙が落ちた後、その空気を断ち切るように英二は父を見た。
「で、優介さん。結果はどうだったんです? 手術日は?」
そう問う英二に、父はカップを見つめたまま「それなんだがな」と切り出した。
「ダメだった」
ニッコリと笑みを作った父に英二は言葉を失ったのか、目を大きくこじ開けて食い入るように見つめるばかりだった。
そんな彼を寂しげに見ると、父はカップを机の上に置いた。
太ももの上で両手を組んで「まあ、薄々は気づいていたんだけどな」とさらに続けたのだった。
「だが、不幸中の幸いだ。なんとなく自分には残された時間が迫ってきている気がしたからな。このタイミングで『帰れる』と聞けたのはラッキーだと思ったよ」
父の言葉に愕然としたのは英二だけではなかった。自分もだ。
耳から入ってくる情報を分析すればするほど、考えてはいけない答えしか返ってこない。
知らないうちにガチガチに固くなるほど体全体に力が入って、身を乗り出していた。
父はそんな俺を見ると、背もたれにゆったりと体重を預けたまま「悪いな」と笑った。
「だからな。おまえらと相談したいと思ったんだ。俺のわがままを聞いてもらいたくてな」
それまで呆然と立ち尽くして聞いていた英二だったが、父の言葉に腹を括ったのか、どっかりと深く椅子に腰を掛けた。テーブルの上で両手を組む。
その左手の甲に俺の視線は釘付けになった。
バーコードのような黒い立て線が刻まれている。
ふと視線を自分の手の甲を見つめる。
左手の甲に同じものが刻まれている。
英二にもう一度視線を戻す。
彼を分析しようと目を凝らしたとき、相手と目が合った。
睨まれて、俺は慌てて分析するのをやめた。
「それで、あなたのわがままとはなんですか?」
英二が父に話を促した。
「ああ。やっぱりおまえの予想のとおり、あれには負荷がかかるらしい。それも時間をかけてじわじわとな。あのときはわからなかったが、ここへ来てその兆候も表れてきている。だから『生身』のままでは『二度目』は耐えられないと思うんだ」
そう言った父に彼は大きくうなずいた。
ふたりだけが理解している会話に、自分は完全に置き去りにされていた。
なにが父の身に起きているのか、その片鱗すら理解することができなかったからだ。
「それでも行くんですよね?」
静かに問う英二の二重の目に力がこもる。
彼の目を見つめ返しながら、父はこくりと首を縦に振った。
「俺の生涯の願いだからな」
「では最初の予定通り、冷凍睡眠による方法でいいんですね」
「ああ。海斗には悪いがな」
そう言って父は俺を見た。
『なにが悪い』のだろう。
自分がどう関係しているというのか。
分析したくても情報量が少なすぎた。
この期に及んでもなお、このふたりは俺になにかを隠している。
だからこそ、どう答えていいのかわからず、ただ彼ら二人の顔を見つめるばかりだった。
「何度も言いますが、おそらくこれから三週間後の五月三十日に、あの日と同じ条件で事が起これば過去に帰ることは可能です。ただ……正確にその時間に戻れるとは言い切れない。それに、あなたはあのときよりも老いています。帰れたとして、人生までは取り戻せないかもしれません」
「ああ、構わんよ」
父は迷うことなく返答した。
それでもいいと言った彼の目は輝きを強めていた。
決していい話をされていないのに、英二の話に彼は希望を見ている様子だ。
そこに一抹の不安さえも見えない。
「では三週間後に。検査結果も貰いましたから、こちらで用意できるものは用意しておきます」
「ああ。いつも悪いな」
「いえ、今の僕があるのは『あなた』のおかげですから」
そう言って、彼らふたりはがっちりと握手をした。
帰り際、英二は自分の耳元で『優介さんを頼む』と囁いた。
俺にはよく理解できないままだった。
だけど、彼が自分同様、父のことを慕っていることは伝わってきた。
大きくうなずいて、俺と父は英二の研究所を後にした。
自分たちの研究所へ帰る車内で父に尋ねた。
どうにも自分だけでは答えが出なかった。
希望のある話ではない。
命を懸けてまで、どうしてそんなに過去に戻りたいと思うのか。
そういったすべてを父にぶつけると、彼は静かに告げた。
「俺はここで生きていたくないだけさ」
「なんで? 過去と何が違うの? 緑に溢れていて、人が多くいるだけだろう? あなたはもう昔のあなたじゃない。あなたを忘れた人だってきっとたくさんいるし、わかってもらえないだろう? それなのに命を懸けてまでどうして過去に戻るんだよ? ここならもう少し寿命を延ばせる。病気の治療だってきっと……」
「だからな、海斗。俺はここでは生きていたくないんだよ」
「それじゃあ死にに行くだけじゃないか!」
自分でも驚くほど冷静さを欠いていた。
荒げた言葉が狭い車内に反芻する。
そんな自分を驚いたように見つめた後で、父は優しくほほ笑んだ。
嬉しそうに、けれどどこか申し訳なさそうに目を伏せると一言だけ、とても深く染み入るような声で返したのだった。
「死にに行くんだよ」と――
そうだ。
彼の願いは自分の生きた時代で死ぬことだった。
だけど、このときの俺はまだ知らなかった。
父の、彼のもうひとつの願いを。
己の命を懸けてまで成したかったこと。
そのもうひとつの願い、いや彼の強く揺るがない意思を知るのはもっと後のことだったから――
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