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第三十二話 耳鳴り
再び英二の研究所を訪れたのは過去に立つことになる一日前のことだった。
『冷凍睡眠状態になるための調整日として一日欲しい』
そう英二から連絡があったからだ。
三週間前、英二の研究所からの帰り道で父が放った一言が、俺の中にこびりつくように残っていた。
ずっとあの意味を考え続けているにも関わらず、いまだ答えは出なかった。
彼が『死ぬため』に過去に戻りたいことが、どうしても俺にはわからなかった。
彼からの説明はその後一切ない。
過去にどうして戻る必要性があるのか――ということは、『本来いるべき場所だから』という言葉やこれまでの話から推測するしかない。
ハッキリしていることは、彼がこの時代の人間ではないということだ。
ではなぜ、過去の人間である彼が未来に来ることになったのか。
それがわかったのは、彼が冷凍睡眠状態になった後のことだった。
英二の研究所で無菌処理をされた父は白の楕円形のカプセルの中に躊躇なく入って行った。眠りに入る前にカプセルの向こうからオレを見る彼の顔は非常に穏やかで、その瞳は強い決意に満ちて力強く燃えていた。
英二がカプセルの操作ボタンを押すと、カプセルの上部にあるボタンが白色点滅から緑に変わった。同時にカプセル内の明かりの色も変化する。
白色灯が薄緑へ変色すると、父自身の姿を隠すように薄緑色の霧がカプセル内に一気に吹き出した。
彼の姿は噴き出した霧によって完全に隠れてしまった。
父の姿が見えなくなっても、薄緑色の霧は一時間以上、晴れることはなかった。
俺は中身の見えないカプセルの前で立ちつくしていた。
英二と共に父を見守る。
どれくらいの時間が経過したのか。カプセルのボタンが『ピピッ……』という小さな音を立てた後で青色に落ち着くと、カプセル内を満たしていた薄緑色の霧が徐々に消えていった。
内部の様子がゆっくりと露わになる。
青白い冷気に満たされたカプセルの中で、父は氷の彫刻と化していた。
人形のように固まって動かなくなった彼を見て、ひどい不安に駆られた。
急いでカプセル上部の数値に目を走らせる。
正常に機能している状態を示した数字が並んでいる。
凍ってはいるがちゃんと生きている。
英二に目を向けると、彼は銀色の眼鏡を押し上げて安心させるようにニッコリとほほ笑んだ。
仮死状態となった父のカプセルを見届け彼は、カプセルの脇にある小さなボタンを押した。
カプセルの下方が静かに開く。
そこから小さな箱が姿を現した。箱の中にはガラス瓶が固定されており、真っ赤な楕円形の錠剤が入っている。
それを眺めながら、彼は「応急処置的ものだから」と言った。
「この薬は今後彼の病気が進行したときに出る発作症状を抑える薬だ。根本的な治療薬はないから気休め程度だけどね。ただ、これがあれば、ずいぶん楽にはなるよ」
そう言ってまた彼はボタンを押した。
薬瓶の入った箱がゆっくりとカプセル内に収納されていく。
それを見届けた後で、英二は俺にカプセルの操作の説明をした。
緊急事態に陥った場合の処置の方法。解凍方法。冷凍方法。
一通りを説明した後で、彼は大きく息をついた。
時計の針が零時を回っていた。それを確認した英二の表情がひどく固いものに変わっている。
緊張のためか、彼のバイタルに揺らぎが見えて、思わず「少し休もう」と声を掛けていた。
「ああ、そうですね」
研究室の脇に設置されたカプセルを一瞥した後で、英二は中央の黒椅子にドサリと腰を下ろした。
少し背を曲げて、机の上に両肘を預けてうな垂れる彼の両手が小刻みに震えていた。
いや、手だけではない。
彼の全身が小さく細かく震えていた。
「あと……19時間後だ」
英二の言葉自体も震えていた。
そんな彼の前にプラスチックカップを置く。
父の研究所から持ってきたお茶の葉で淹れた緑の液体が、小さな湯気をあげていた。
ゆっくりと手を伸ばす英二の手の中で、カップはカタカタと小刻みに震えている。
それでもなんとか彼はゆっくりと口をつけると、カップを置いた。
大きく息をつく。
「落ち着いた?」
そう尋ねると英二は顔を上げた。
向かいに座ってお茶をすする俺に「君はずいぶん落ち着いてるね」と言った。
「父があんたを信用している。その事実しか俺にはないからだと思う」
「そうか。そうだな」
彼は一人納得して、かすかに笑んだ。
それからもう一度カップに口をつけた。
あれほど震えていた彼の体の揺らぎは驚くほどピタリととまっていた。
バイタルも平常値に落ち着いている。
「なあ、うまくいくのか?」
「ゲートは開く。だけど必ず指定した時間に戻れるとは断言できない。誤差は出る。その誤差が何時間単位なのか、何日単位なのか、あるいは何年単位なのか。申し訳ないがそこまではわからない。ただ必ず過去には帰れる。彼を過去に帰すために、俺はずっと研究を続けてきたから」
ぐっとプラスチックのカップを力強く握りしめた後で、英二は俺を真っ直ぐに見つめた。
二重の茶色の目が眼鏡越しに見える。
彼はその目を弓なりに曲げると「実はね」と切り出した。
「俺は過去で君にそっくりな人に会うんだよ」
「え!?」
あまりのことにカップを落としそうになった。
手の中を滑るカップをもう一度しっかり握りしめると、英二は口元を緩ませる。
懐かしそうに目を細めて――
「しかもね、動物園だよ」
「動物……園? なに、それ?」
「過去に戻ったら調べて、行ってみるといいよ。きっと楽しいから」
「あ……うん。わかった。行ってみる」
コクリ……と大きくうなずくと、彼はさらに続けた。
「海斗君。君が優介さんに拾われたのは偶然じゃないんだよ。君が優介さんと会えるように、俺が君を探し続けたから。だからあの廃棄場で優介さんが君を見つけて、君を直して、今一緒にいるのは偶然なんかじゃないんだよ。全部、必然なんだ」
「どういう意味?」
父に拾われる以前に英二に会ったという記憶はない。
再生されたときに、それ以前の記憶がリセットされたのかとも思ったが違う。
記憶はリセットはされていない。父はその記憶も大事だと言って消さなかった。
生まれた頃から父に会うまでの記憶も残っている。
その頃はつらいとも悲しいとも感じなかった記憶だけれど――
「過去に戻るために君が必要だった。そして今、君がここにいるという事実が証明することは『君たちは過去に戻れる』ということだよ。ただ、過去に戻れることはできても、俺と会うときにはもう優介さんはいないと思う」
俺は言葉を失った。
過去に戻ることは父の最期を看取ることになるということだ。
それは覚悟したことだった。
父の願いだ。
それを叶えてやりたいと決めたからこそ、ここにいる。
それでも英二によって語られる未来の姿は、想像するだけで気持ちのやり場をなくしていた。
父がいない。まして誰も知っている人がいない状態で俺はずっと生き続けねばならなくなる。
父の亡骸を傍で守るためだけに果てない時間を過ごすことになるのか――
「ひとつだけ、優介さんをしあわせにできる方法があるんだよ」
ハッとして見つめた英二の顔から笑みは消えていた。
眼鏡越しに見える目に影が落ちる。
「彼が未来に飛ぶ事実を防げばいい。そうすれば……」
ごくりと息を飲み込んだ。
言われなくても脳内ですでに答えは出ていた。
「彼は病気になることも、つらい過去を引きずることもなく、しあわせなまま生涯を終えることができるだろう」
過去を変えさえすれば、彼のもっともしあわせな未来が待っているのだと、英二は淡々と告げた。
けれど、彼はさらに付け加えた。
父のもっともしあわせな未来の先にあること。
過去を変えることによって生じること。
背負うことになるリスク、代償。
それは俺を激しく動揺させた。
そしてその言葉はいつまでも俺の中に残ることになる。
激しい痛みとせめぎ合う意思という傷と一緒に――
「さあ、行こう」
過去に戻る一時間前、俺たちはゲートが開く場所へ、父が眠るカプセルと共に向かった。
2139年5月30日 PM19:19
それは起こる。
大地が激しく揺れ動き、巨大なエネルギーが発生する。
そのエネルギーがもたらしたのは『時振』。
惑星自身が放つ、時空間にまで影響を及ぼすほどの巨大エネルギーによってゲートが開かれる。
英二は何十年もを費やして、このゲートの出現場所を研究し続けていた。
それが今、目の前にあった。
数十秒間のことだった。
空間に生じた歪みの中へ、俺は父のカプセルに覆いかぶさるようにして飛び込んだ。
ゲートの内側に入ってしまえば、もう元の時間軸には戻れない。
急速に閉じていくゲートの向こうで銀縁の眼鏡の彼が泣き叫んでいた。
『過去でまた会おう! もうひとりの……』
彼の言葉は最後まで聞こえなかった。
気づけばもう彼の姿は見えなくなっていたからだ。
そうして俺は……
いや、俺たちは巨大な時空の渦の中に吸い込まれていった。
『もしも過去を変えたら……』
英二の言葉が耳鳴りのように頭の中で繰り返される。
『今の君は存在しなくなる』
その一言がいつまでも――
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