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第三十三話 過去、記憶と思い出
なぜ父は、未来に飛んでしまった2019年5月30日よりも20年も前の時間に戻りたかったのか――
そのときの俺にはまだ理由がわからなかった。
彼の望んだ通りの時間にぴたりと戻れたわけではない。
さらに、英二の言った通り誤差も生じた。
彼が望んだ時間よりも数年も過去に戻ってしまっていた。
しかし、彼はそれで構わないと笑ったのだ。
「いいんだよ、これで。俺が生まれた年には戻って来られたんだから。ゆっくりとまた、時を刻んでいけばいい」
未来とは違う風景がここにはあった。
彼の手にしたかった本物の風景を見たり、感じたりする度に、彼はいつだって懐かしそうに目を細めていた。
その目は煌めき、生き生きとしていた。
未来にいたときには見たことがなかった目だった。
俺にとっては初めてとなる過去の風景は、緑が取り囲んでいて、風が優しかった。優しい風に土と自然独特の青味の強い匂いが混じっている。
酸性ではない、数多の生き物が優雅に泳ぐことができる柔らかな海があって、水道を捻れば濁りのない透明度の強い水が肌を濡らした。
空気は清み、空の色は多様だった。
真っ赤に燃えて沈みゆく太陽を初めて見た。
青くなったり、白くなったり、黄色くなったりと、その時によって表情を変える月を初めて見た。
雨は痛みを伴わなかった。
冷たい雨だけではない。
命を育む優しい雨に打たれるのが好きになった。
俺たちを取り囲むすべてのものが温かく、優しく包み込んで抱きしめる。
そうだ。
俺にとって、この世界は父そのものだった。
そして、父はこの世界によって育まれたのだ。
どうしてもここに帰ってきたい。
ここで死にたい。
そう言った彼の言葉が痛いほどわかるようになると、彼が笑顔をこぼすたびに、胸がちくちくと痛んで仕方なかった。
過去に戻った父は、俺に自分の小さい頃の話をよく聞かせてくれた。
彼が生まれた場所や育った場所へ行き、そこで同じような体験をさせてくれた。
どんな遊びをしたのか。
どういったものが流行ったのか。
それはどんな感情を伴うものだったのか。
付随する記憶もすべて俺に語って聞かせて、体験させた。
話しただけでは記憶には残らない。
いや、俺ならば記憶を情報として蓄積はできる。
だけどそれでは意味がないんだと、彼は体当たりで俺に経験を積ませていったのだ。
それこそ、子どもたちの遊びを全力で教えてくれた。
鬼ごっこも、かくれんぼも、缶けりも――
ふたりでは数が足りないときは、公園で遊んでいる子供に声をかけて一緒に遊んだ。
未来では父とふたりきりの生活だった。
強いて知っている人物をあげるとすれば、英二だけだった。
寂しいとは思わなかった。
ふたりきりでも、知り合いがいなくても、少しも寂しくはなかった。
だけど、この世界にやってきてからは知り合いがひとり、ふたりと増えていった。
いつの間にかその輪の中に自然に溶け込むようになっていた。
父がそんな俺を遠くから眺めてほほ笑んでいる。
それがすごく嬉しかった。
遊び疲れた夕暮に、川べりを父とふたりで並んで歩いた。
父の片手にはスーパーの買い物袋がぶら下がっていて、ゆっくりとした歩調と相まってゆらりゆらりと小さく揺れていた。
茜色の空と同じ色に溶け込んだ道に、俺と彼の影が長く伸びる。
空の向こうへ飛んで行くカラスの鳴き声が聞こえた。
ランドセルを背負った子供たちが家路へ急いで走っていく。
その後ろ姿を目で追うと、父はフフンと鼻歌を歌った。
過去にやってきてからは、未来で一緒に過ごした5年間では見たことがなかった父の姿を、俺はいくつも見ることになった。
上機嫌で鼻歌を歌う。
腕まくりをして料理を作る。
テレビを観て大声で笑う。
風呂から上がって裸のまま大の字になって、畳の上でいびきをかいて寝る。
この時代に戻ってきて、それまでずっと張り詰めていた糸がやっと緩んだような父の姿に、俺は目を見張るばかりだった。
それと同時にしあわせも感じていた。
もちろん、父に拾ってもらったことも、未来で過ごした時間もしあわせだと感じなかったわけではない。
だけど、この時代で彼とともに過ごした時間は他にないほど充実していて、自分が『モノ』であることすらも忘れ去っていた。
父の子である、ただの『海斗』になっていた。
それくらい俺はしあわせだったのだ。
でも、そんな時間が長く続くはずがなかった。
父は体に爆弾を抱えていた。
長くは生きられない。
完治することもない病をその身に抱えていたからだ。
食欲にムラが出た。
嘔吐もした。
ときに血を吐くこともあった。
食べても太らず、痩せていく。
そして初めての発作――
いつものように買い物をして帰るだけのはずだった。
ふたつの長い影のうち、ひとつだけが揺らいで落ちた。
彼は道路に突っ伏して、激しく痙攣した。
ほんの数十秒の出来事だったのに、それは永遠のような一瞬だった。
急いで抱き上げた俺の腕の中で、彼はほほ笑み『大丈夫だ』と、荒い息の中で何度も繰り返した。
初めての発作を目の当たりにしてからは、必ず薬を携帯するようになった。
その後、彼の発作の回数は徐々に頻繁になって、時間も長くなっていった。
ある日の朝、目覚めるとコーヒーの匂いがした。
彼はいつものように台所に立っていた。
鍋の中でなにかを温めていた。
その口元にはわずかに笑みが乗っている。
今日は体調も気分もいいようだと、彼を見てホッとした。
だけど不安は完全には消えなかった。
上機嫌な彼に見つからないようにそっと着替えをしに戻って、再び台所に踏み入れようとして、足をとめた。
彼の表情が崩れるその瞬間を、俺はこれまでに何度も見てきた。
彼はいつも自分で作った『カフェラテ』を飲むときに表情を変える。
カップの中の白い泡を見つめて、時折窓の外を眺める。
空の向こうを仰ぎ見て、再びカップを眺める。
冷めてしまっていると思われるカフェラテに口をつけたときの目は、いつも遠くを見ていた。
寂しげで、とても悲しい顔だった。
なにを見ているのだろう?
なにを思っているのだろう?
わからない不安が胸の内側をせせり上がった。
知りたいと思う気持ちと、知ってしまったらいけない思いがせめぎ合って、どうにも口にできなかった。
だから何食わぬ顔で彼に話しかけた。
でも、この日の彼はいつもと違った。
唐突に『浦島太郎』の話を切り出してきて、『浦島太郎』はどんな話なのかを俺に問いかけた。
俺はわざと茶化すような話し方をしてみせる。
彼を笑わせたかった。
いつもと雰囲気の違う彼に対して抱いた不安を、掻き消したかった。
けれど不安はより大きな波となって打ち寄せる。
答えられない質問をいくつもした後で彼は、決意に満ちた強い瞳で俺に聞いたのだ。
『俺の秘密を守ってくれるか』と――
腹の底に響くような、圧倒的な力を持った言葉だった。
拒否権はない。
父は『問いかけ』をしているけれど、文字通りのものではない。
『守ってくれ』という強い願いが込められた彼の問いかけに、俺ができたのはただ強くうなずくことだけだった。
黙って聞いた。
彼が語ることに耳をそばだて、聞き漏らしがないように頭の中にインプットした。
そうして俺は、このとき初めて『彼女』の存在と、父が彼女と作った思い出を知ることになった。
彼が命を懸けてまで戻ってきたかった理由の一つ。
いや、きっとすべて。
彼女のことをすべて聞き終えたとき、やっと合点がいった。
彼がどうして帰ってきたかったのか。
その本来の目的と願いを聞いて、ようやく点だったものが線へ変わった。
このことがきっかけとなって、俺の時間が動き出した。
遠い日に『置き去り』にしてしまった父の思い人である『彼女』が、その後の俺のすべてを変えていくことになるのだ。
彼が命を懸けて愛したその女性『瀬崎美緒』という存在が俺を『人』という存在へと変えていく『鍵』であることを知るのはもっとずっと後。
父を失くしてひとりになり、彼女という存在に触れて、共に過ごすようになった後の話なのだが――
これこそが彼が俺という『モノ』にかけた愛の魔法だということに、このときはまだ気づけなかった。
そう。
『浦島太郎の悲しみの答え』を知るまでは――
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