第三話 誕生日とバラの花束

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第三話 誕生日とバラの花束

 優介が失踪した日よちも二か月前にあたる2012年3月3日。この日は私の25歳の誕生日だった。    この日、私は定時で会社を出て、急いでアパートに帰ってきていた。優介と付き合ってからは5年目、同棲を初めてからは2年半後のことになる。  「せっかくの美緒の誕生日だし、外で美味しい物を食べようよ」  そう優介から提案されたけれど、私は断った。外食も嫌いではないけれど、どうせなら二人きりでゆっくりと過ごしたかったからだ。それこそ、誰にも邪魔されることなく―― 「手料理は嬉しいけどさ。自分の誕生日ぐらい楽したら? 美緒だって働いているんだし」 「それはそうなんだけど。私にとっては優介が私の作ったごはんを美味しそうに食べてくれるほうが外食するよりもずっと嬉しいから。その代わり、私がびっくりするようなケーキを買って帰ってきてよ。ね?」  ケータリングでもいいじゃないかと彼は続けた。だけど結局は、私の言葉に折れるしかなかった。『私の誕生日なんだから、私に決める権利があるじゃない?』の一言がトドメになったからだ。  彼はなるべく早く帰って来るから――そう言い残して大学の研究室へと出勤していった。 「今日は朝まで寝かしてあげないんだからね」  なんて、ちょっと気恥ずかしくなるような一言を残して。  優介との朝のやりとりを思い出しながら、駅前のスーパーに寄って食材を買いこんだ。スキップにも似た足どりで急いでアパートへ戻る。  台所のテーブルにずっしりと重たくなって、今にもはちきれそうに膨らんだスーパーの袋を置くと、奥の寝室に通勤かばんとスーツの上着を片付けに行った。  ダイニングテーブルの椅子に引っ掛けてあったエプロンをさっと身に着けると、さっそく調理の支度を始めた。  今日は優介の好きなビーフシチューにサラダ、トマトのブルスケッタを作るつもりだ。買ってきたものを袋から出してから、流しの下にしまってある圧力鍋を取り出した。  時間短縮のために煮込み用の冷凍野菜を使う。牛肉を入れてから、きっちりと蓋をして火にかけた。その間にトマトとバジルを刻んでオリーブオイルとおろしにんにくを混ぜる。塩コショウで味を調えると、カットしたバケットをトースターに並べてタイマーを回す。  5分くらいだろうか。トースターが焼き上がりを知らせるようにチンっと鳴った。  ちょうどそんなタイミングだった。 「美緒、ケーキ買ってきたよ!」  はじけるような優介の声が飛び込んできた。  続けてドタドタと慌ただしい足音が廊下に響いて、優介がダイニングへと入ってくる。彼は流しの前に立つ私に「ほらっ」という誇らしげな顔を私に向けた。それからずずいっと、彼の顔と同じくらいの大きさをしたケーキの箱を横に並べて、鼻をすすった。 「へへっ、たくさん買ってきちゃった」  満面の笑顔を浮かべてみせる優介は少しそわそわしている。 「いくつ買ってきたの?」  そう問うと、彼は「コホンッ」とひとつ咳払いして、胸を張る。 「カット済みのケーキをホールの大きさになるまで買ってきた」 「二人しかいないんだけど?」 「俺も美緒も甘い物大好きだから全部食べられるでしょ!」 「もう、太っても知らないからね。ジーパンの上にお腹の肉が乗っちゃうおじさんまっしぐらになりそうじゃない?」 「食べたら走ってカロリー消費するから大丈夫!」 「もう、優介ったら」  クスッと二人で顔を見合わせ笑い合う。そんなひとときがとてもしあわせだった。  だけど、そんな時間はすぐに凍りつくことになった。 「ああ、そう言えばさ」  優介は冷蔵庫の中にそっとケーキの箱をしまうと玄関に立ち戻った。しばらくして、私にあるものを差し出した。 「わあ! すごいきれい! この花束は私のために?」  胸一杯に抱えるほどの大きなバラの花束だった。燃える真紅のバラの花びらは瑞々しく、凛と咲き誇っている。けれど優介は困ったように顔をしかめて、こりこりと顎を人差し指で掻いた。 「俺じゃないんだ、これが」 「え?」  聞き返すと、彼は「玄関に置いてあったんだよ、花束が」と答えたのだ。 「玄関? 私が帰ってきたときにはなかったよ」 「呼び鈴は……ならなかった?」 「うん。6時には帰ってきていたけど、チャイムはならなかったなあ」  優介が胸元で抱えた花束をじっと見つめた。 「1、2……」 「優介?」  花を指しながら一本一本数えだす。不審に思って尋ねる私に「しっ」と口に人差し指を宛がっった。そのまま彼はバラを数えつづけた。 「25……これ、25本あるよ」  眉間に深いしわを寄せて、彼は苦い表情を作った。  25本のバラ。  私の年齢と同じ数だ。 「カードもあるよ。『HPPPY BIRTHDAY MIO』って……君が帰ってきたときにはなくて、呼び出し音もならなかった。配達なら勝手に置いて帰るのは不自然だし。もしも贈り主が君の知り合いなんだとしたら、直接本人に渡すと思うんだよなあ。部屋の明かりだってついていたはずだし。となると……」 「となると?」  一拍置いて、じっと私を見つめる優介のまなざしがひどく険しくなる。 「君が俺以外の誰かと浮気している」 「ちょ……! そんなわけないじゃない!」  間髪入れずに否定した。優介以外の男性と男女の関係になっているわけがない。  たしかに大学時代からつき合い続けている。同性もしている。いつかは結婚するかもしれないとまで思っているのに、他の男と浮気する余裕がどこにあると言うのだろう。  ムッと口を突き出してそう反論した私を見るや否や、優介はふわりと破願した。 「だよなあ。そんなわけないよなあ。だって美緒だもんなあ」 「それ、どういう意味よ!?」  食ってかかる私の頭を、彼はくしゃくしゃと撫でた。 「俺に夢中だってこと!」  とニシシッと白い歯を見せて、からかうように言ったのだ。 「もうっ、私、本当に今のは怒ったんだからね! 優介のバカ! 大バカ! もう知らない!」  ドンッと彼の胸を拳で叩くと、彼は静かに私の背に手を回した。ギュッと抱きしめて「ごめん」と謝る。なおも胸を叩こうとした私の抵抗を封じるように、彼はさらに腕の力を強めるとささやいた。 「でもね」  押しつぶされるほど強い力で優介に抱きしめられた。彼は私の顔に力強く自分の顔を押しつけたままの姿勢で、今度は腹に響くような太くて深い声色で続けた。 「もしかしたら……君のことを好きながいるのかもしれない」  その言葉を投げた後、優介はほんの少しだけ私を抱きしめる腕の力を緩めた。  すぐそこにある彼の顔を見上げれば、これ以上ないほどに眉間にはしわが寄っている。恐れとも怒りとも思えぬ感情に濡れた目がそこにあった。  その目に私は言葉を失い、ただ見つめ返すことしかできなかった。  何を言われているのかを瞬時には理解できなかった。  だけど理解し始めると、その恐怖はじわじわと足元から這ってくる。  自然に震える私の肩を優しく包み込むように抱きしめながら、優介は「大丈夫だよ」と力強く言った。 「もしもストーカーなら、俺が全力で君を守るから。でもね、美緒。これだけは覚えていて。この花束を贈ってきた人物は君のことを知っている人間なのは間違いない。だから気をつけるんだ。ひとりのときは絶対に。なにかあったらすぐに俺に連絡するんだよ? まあ、とりあえずは後でちゃんと確認してみよう。知り合いの中にサプライズ好きがいないこともないだろうし……ね?」 「うん」    シューシューと圧力鍋が勢いよく湯気を噴き出し、濡れた騒音を立てつづけていた。まるでこのしあわせな時間を阻むなにかを感じ取って、ざわめいているかのように――  その後、このバラの花束はメッセージカードごとそのまま廃棄することになった。  考えられる知り合いすべてに確認をとったにもかかわらず、結局、バラの花束の贈り主を見つけることはできなかったのだ。私たちの知り合いの中に贈り主はいないという後味の悪さだけを残して――
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