第六話 思い出の曲

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第六話 思い出の曲

 優介は自分から消えたくて消えたわけではない――そんな事実がある一方で忘れてくれ、新しい人生を歩んでくれと言われた私は一体どうすればよいのだろうか?   それがわからなかった。  優介の失踪後、数日してから筆跡鑑定の結果を知らされた。  まちがいなく本人のものであり、他の人間が真似て書いたとは到底考えられないということを伝える優介の両親の顔は悲痛そのものだった。  真一文字にきつく結ばれた口から訥々(とつとつ)と語られる内容に、私の拳は自然に強く握りしめられていった。   「お父さん……お母さん……」  じっと見つめてそう呼ぶ私に彼らはほほ笑んだ。 「あなたが優介のお嫁さんになってくれることを、私達の娘になってくれることをどんなに楽しみにしていたのか。できればあの子のことを忘れてほしくない。だけど、あの子が愛したあなただからこそ、しあわせになってほしいの」    そう言われたらなにも言い返せなかった。  YESもNOも言えない。   きっと優介の両親も同じ気持ちだったに違いない。  それでも彼らは自分の息子の意思を尊重したのだ。  愛しているから。  変わらずずっと。  それは私も変わらない思いだった。  アパートにあった優介の荷物はすべて彼の両親が引き取っていった。  一緒に買ったお揃いのマグカップも、お皿も、お箸も、茶碗も、なにひとつ残らなかった。  優介との大事な思い出を詰め込んだ写真もすべてなくなった。  新しい人生を歩まなければならない私にとって、思い出は足かせにしかならないからと。    アパートを出るその日、私は何もなくなった部屋でぼんやりと外の景色を眺めていた。  薄青い空に白い雲がゆっくりと流れていく。  空から少し視線を落とす。  通り向かいにはコンビニの看板が立っていて、いつになく目に入った。    ――今日でおしまい……か。  窓を閉めて部屋の中を見回した。  残っているのは私の服が詰まったスーツケースがひとつだけ。  ダイニングテーブルも洗濯機も、冷蔵庫もみんな売り払ってしまった。  がらんとして広くなった部屋にぽつんと寂しげに置かれたスーツケースを手に取った。玄関に向かう。  はきなれたスニーカーに足を通そうとしたときだった。コトンッと音がした。  ハッとなり、足がとまる。音がしたのはドアに備えつけられた郵便受けだ。  そこに何かが投函されたみたいだった。  だけどいつもの配達時間とは違っていた。  いつもなら郵便物は午前中に届く。それにもう、転送届は出している。ここに配達されることはないのだ。  不審に思って急いでスニーカーを履いた。郵便受けを開けて中を確認する。B5サイズの茶色い封筒の中に薄っぺらくて固いものが入っているような感触が私の手を押し返した。  封筒をひっくり返す。裏には『to Mio』という宛名シールが貼られていた。引き裂くように急いで封を破った。中身を取り出す。 ――これは……!?  CDが入っていた。たった1枚だけ。  白い背景に外国人女性がニッコリとほほ笑むジャケットには『Falling Into You』というCDのタイトルと共に『セリーヌ・ディオン』の文字が印刷されていた。  くるりとCDを回転させれば、水色の『2』という数字と『BECAUSE YOU LOVED ME(4:33)』の部分に黄色の蛍光ペンが引かれていた。    それを見て私の指先は震えた。なりふり構わずに、一気に扉を開けて外へと飛び出した。廊下から上半身をのり出すようにして周りを見回す。  アパートの先を曲がっていく人影があった。反射的に身をひるがえす。  人影は若い男性だった。まさかという思いに駆られた。  優介の親友である良平さんから聞かされた男のことを思い出していた。  2カ月弱、探し続けても手掛かりひとつなかった男の人かもしれない。  遠ざかる影を追いかけるように走った。  白いシャツにジーパン姿のすらりとした若い男性が歩いていた。角を曲がるその横顔がなぜか優介と重なった。風で流れた自分の長い黒髪がその顔をすぐに覆い隠してしまったから、はっきりと見えたわけではないけれど――    心臓が慌ただしく動きを速めた。足が絡まってもつれそうだった。  CDケースを握りしめ、私は階段を駆け下りた。必死で男性を追う。 「ねえ! 待って! お願い! 行かないで!」  口の中に髪の毛が入るのも気にせずに叫んでいた。無我夢中で走る。  足が重たい。足そのものが鉛になったみたいだ。自分がこれほど足が遅かったかと思うほどにもどかしい。  優介に面影が重なる人物が歩いただろう道を必死で走る。  彼の姿が消えた角を曲がった。  だけど優介に似た白いシャツの男性の姿は陽炎さえも残さずに消えてなくなっていた。 「はぁ……はぁ……はぁ……」  肩で大きく息をつく。体は燃えるように熱くなっていた。  その体を冷やすかのように風が駆け抜ける。汗ばむ長い髪を拾い上げて去っていく。  手がかりをつかめなかった。  そのかわり、思い出だけが残る。  『私が私自身でいられたのはあなたが愛してくれたから』 という内容の曲は彼がドライブするときに、車中でよくかけていた曲だ。 『まるでさ。俺達のことを歌っているみたいじゃない?』  そうやって笑った彼の笑顔が蘇る。  私たち二人だけが知る甘い思い出の曲。  それだけが確かに私の手に残っていたのだった。
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