第七話 どうして浦島太郎は悲しかったのか

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第七話 どうして浦島太郎は悲しかったのか

 優介が失踪する半年くらい前のことになると思う。  二人でどこかに旅行へ行こうと日本全国の観光地を調べていたときのことだ。  彼は突然、こんなことを私に言った。 「ねえ、美緒。浦島太郎って実在してたって知ってた?」 なにを唐突に――そう思って私は顔をあげた。  優介は観光名所ガイドという分厚い本を見ていた。その本を私に突き出してみせて「ここ」と指で示した。 「寝覚めの床っていう場所があるんだって。ここで浦島太郎が玉手箱を開けたっていう逸話が残っているらしいんだ」 「なにそれ?」  彼が示したページには長野県の観光地が載っていた。中山道という妻籠宿や馬籠宿などがある江戸時代の名残を留めた宿場町が連なる観光地の一つ。『上松』という駅からほど近いところにその場所はあるらしい。  木曽川沿いに巨大な奇岩が並んでいる。その巨大な岩はまるで石切場から切り出して運んできたかのように整然と並んでいる。とても神秘的で、不思議な感じがすることから、そういった逸話が生まれたのだろうか。 「でも浦島太郎は竜宮城から帰ってすぐに玉手箱を開けちゃったんじゃないの? 浜辺でおじいさんになる絵本しか見たことないけど?」  浦島太郎の昔話なら日本人であればだれもが知っていることだろう。私もそうだ。  小さい頃に絵本で見た覚えもある。その絵本には浜辺で玉手箱を開けてしまって、真っ白な髪とひげを生やしたお爺さんに変化した主人公の驚いた様子が描かれていたはずだ。 「絵本と違うみたいだね。全国各地に浦島伝説はあるっぽいし」 そう言いながら、彼は今度はパソコンに向き合った。インターネットで『浦島太郎 寝覚めの床』と検索する。  するとすぐになぜそう呼ばれるのか説明したサイトにつながることができた。 「えっと。浦島太郎は玉手箱以外にも宝物をもらってきたみたい。で、しばらく釣りをしたり、霊薬売って生活してたみたい」 「霊薬って……なんか詐欺師みたいじゃない?」 「だって竜宮城に行ったんだぜ?」 「どうやって海の底に行けるのよ? 酸素ボンベでも背負ってた?」 「そこはほら、リアリティを追求しちゃダメなとこでしょ?」 「でも実在したって言うなら、まずは竜宮城へ行く方法がリアルじゃないと」 真顔で追及する私に優介は「あっはっは」と声を大きく上げて笑った。 「魚たちが代わる代わるキスをしながら酸素を運んでいたかもしれないし。竜宮城への道は秘密の海底トンネルがあったかもしれないし。とにかく、ここでうっかり開けちゃったってことだからさ」 「うっかり開けちゃったあと、彼はどうなったの?」 「老人になったみたい。しかも300歳だって」 「それ、絶対に実話じゃない」  優介がお腹を抱えて笑った。「そりゃそうだけどさ」と言いながら「考えさせられるよ」と答えたのだ。 「考えさせられる?」 「うん。老人になってしまったあと、浦島太郎は誰にもなにも言わずにその場所からいなくなっているんだ。これは考えさせられない?」 「言っている意味がわからないんだけど」  優介は頭がいい。アンドロイドの開発を主導するほどの人だから、私と見方がちがうときも多い。そういうときは本当に感心する。  そしてなぜ彼が私みたいな取り立てて頭もよくない私なんかといるのかも、ときどき不思議に思うときもある。  彼は私のどこを好きになってくれたのだろう――そんな風に。 「彼はさ、なにを思って失踪したのかな?」 「霊薬を売っていたのに老人になっちゃったら売れなくなって生活できなくなった……とか」 「美緒は本当にリアリストだな」  ふふっと彼は笑って「俺はさ」と続けた。 「きっと悲しかったんだと思うんだ、彼は」 「悲しかった? どうして?」 「そりゃあ、だって。突然老人になっちゃうし、さ」 「それだけ?」 「えっと……この話は保留にしない?」 「わかった。じゃあ、ちゃんと考えておいてね。浦島太郎が悲しくなった理由」 「君がこの話を忘れてしまってくれることを祈るけどね」 「なにか言いましたか、優介君?」 「いいえ、いいえ。よおく考えます」 「よろしい」  顔を見合わせて同時に笑う。『いつかこの場所にも行ってみようね』なんて言いながら。  このときは思いもしなかった。彼が本当にいなくなってしまうなんて。  結局、どうして浦島太郎は悲しかったのかの理由を私はもう二度と聞けなくなってしまったのだ。  彼が答えを見つけたのかどうかもわからないままに、私はそんな思いでを頭の隅に追いやった。
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