第八話 彼の好きだったもの

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第八話 彼の好きだったもの

 優介はカフェ・ラテが好きだった。  特に私の淹れたものは絶品だといつもすごく褒めてくれた。 「美緒の実家は喫茶店だろう? 俺、その喫茶店継ごうかなあ?」  私の淹れたカフェ・ラテを飲みながら、彼がつぶやいた。その口の周りにはミルクの白いひげがくっついている。 「優介には大事な研究があるんでしょ? それにうちはすっごい田舎の小さな喫茶店だから。両親も別に継いでほしいなんて思ってないし」 「ええ! こんなうまいカフェ・ラテ出してくれる店なのにご両親の代で終わらせちゃうとかもったいなさすぎでしょ?」 「大袈裟だよ。それにうちの喫茶店ではコーヒーはよく出るけど、カフェ・ラテなんてほとんど出ないんだから。うちのお父さんが好きで家ではよく飲んでたから、私も飲むようになっただけだし」  そう説明する私に、優介は「じゃあさあ」と唇を突き出して提案した。 「美緒がこっちで店を出すっていうのはどう? ほら、そうすればさ。俺の再就職先にもなるし」 「むりむり。お店を経営するって大変なのよ? 私はそういうのは向いてないって」 「いい案だと思ったのになあ」  彼は子供みたいにくちびるをとがらせた。本当に残念そうに眉尻をさげて、しげしげとマグカップの中のカフェ・ラテを見つめている。  そんな彼がかわいらしくて、私はある質問を思いついた。  ピッとまっすぐに右手の人差し指を差し出して、彼を見つめる。 「では、優介君に質問です。カフェ・ラテとカフェ・オ・レの違いはなんでしょう? 答えられたら、喫茶店経営の話を真剣に考えることにします」 「え? 本当?」  彼がガタッと急いでテーブルから立ち上がる。リビングへ向かおうとする彼に「ダメよ」と告げた。 「ネットで検索は禁止です」 「え? まじか?」  彼はこりこりと頭を掻いて椅子に座り直す。それから両腕を組んで「うーん」と唸った。  しばらく考えたのち、思いついたのか。パッと顔をあげた。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。 「カフェ・オ・レはフランス語。カフェ・ラテはイタリア語っていう違いです!」 「半分正解」 「え? 半分だけ?」  彼がすっとんきょうな声を上げる。自信満々だったらしい。少しばかり肩を落としている。 「カフェ・オ・レがフランス語で、カフェ・ラテがイタリア語というのは正解です。カフェ・オ・レのレはフランス語では『ミルク』の意味だし、ラテはイタリア語のラッテ、つまりこれも『ミルク』という意味だから、言葉の違いというのは半分当たってるのね」 「半分ってことは、決定的に違うものがあるってこと? 同じコーヒー牛乳なのに?」 「ええ、もちろん」  目をまん丸にさせて前のめりに話を聞く彼に、私はえっへんと咳払いしてみせた。それから得意げに胸を張って「コーヒーがちがうんです」と答えた。 「コーヒー?」 「そう。カフェ・オ・レに使われるのは普通のコーヒー。だけど、カフェ・ラテの場合はエスプレッソを使うの。カフェ・オ・レに比べるとカフェ・ラテのほうが苦味が強い感じがしない?」  優介がじっくりとマグカップの中を見つめる。カップをほんの少し傾けて、回しながら「へえ。そうなんだ」と心底感心したようにため息を吐いた。 「まあ、でも細かな違いはたくさんあるのよ? ミルクの分量も違うし」 「なんかすごく奥深いね。ただの飲み物なのに。こういうこと、ぼくの研究しているアンドロイドにも覚えさせたいなあ」 「違いがわかるアンドロイド? 完成したらコーヒーのCMにも起用されちゃいそう。味の違いがわかる男……みたいな」 「そうなったら、ぼくらはきっと大金持ちになるね。CM起用の契約金でさ」 「それまでに研究費でめちゃくちゃ貧乏生活強いられそうな気がするけど」 「美緒ちゃん? そういう現実を突きつけちゃいけません」  そう言って、彼はあははと笑った。  爽快な笑い声が空に吸い込まれるみたいだった。  そうだ。私たちは未来しか見ていなかった。  とてもしあわせな未来が待っているって、いつも思っていた。  だからどんなささいなことも楽しかった。泣いている暇がないくらい、優介はいつも私を笑わせてくれたから――  優介が失踪してから私は、彼の好きだったカフェ・ラテを作ることはしなかった。飲むこともなかった。  思い出すのがつらかった。彼の笑顔をもう見られないと思うだけで胸が引き裂かれて痛かった。  優介との思い出が色あせないから、私はずっと避けてきたのだ。  カフェ・ラテという飲み物を遠ざけることで、痛みから逃げていたのだけど――海斗と出会って私は変わった。  もう一度、私の作ったカフェ・ラテを誰かに飲んでもらいたい。  おいしいと笑ってほしい。  そう思わせるほどの力が海斗にはあった。  だって海斗は知っていたから。  カフェ・オ・レとカフェ・ラテの違いをこと細かく知っていたから。   そして優介みたいに笑ったのだ。  私の作るカフェ・ラテが世界で一番おいしいって。 『自分の店を持たない?』  どこかでそうやって言ってくれる人が現れるのを、私は待っていたんだと思う。  優介と同じことを言ってくれる人がをずっと、ずっと待ちわびていたのだから。  
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