【first contact】第一話 この曲が終わるまで待って

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【first contact】第一話 この曲が終わるまで待って

2019年5月30日。  どうして今日なのか。  どうしてこの日でなければならなかったのか。  その問いかけが喉元まで出ているのにも関わらず、私は言葉を紡げないでいた。喉の奥で言葉が引っかかっている。息苦しさと気まずさが、私と彼の間に大きな川のように横たわってしまっているようにも感じた。 ――なにか言ってくれればいいのに。  だけど、ハンドルを握りしめた彼の目は真っ直ぐに前を向いたままだ。助手席に座る私を見ようとはしない。  だから余計に、私も彼を直視することができなかった。  不安で押しつぶされそうになる胸が鼓動を早めていた。緊張のためか、ドクドクと溢れるように流れる血液の音がひどく大きく聞こえる。まるで耳のすぐそばに心臓があるみたいにだ。  汗ばんだ手を膝の上に置くと、力を込めてしっかりと握りしめた。てのひらにとがった爪先が当たって肉に食いこんだ。  どれくらいこうしているのだろう。  乗り込んだ車はもう二十分ほど走り続けているというのに。  どこへ向かうか、一向にわからない。  見知った街の風景が徐々に見慣れないものへと変わっていく。それを私はただ見送った。  春風に揺れながらそよめいている深緑の街路樹が流れるように通りすぎていく。  住み慣れた街並みが知らないものへと徐々に変わっていく。  とめることはできない。  外の風景から目を離して、運転席に座る彼をちらりと盗み見た。  ハンドルを握りしめる彼の大きくてたくましい手が、いつも以上に強固なものに見えた。  艶やかな淡い褐色のさらさらとした前髪からこぼれた目が、緊張したように強張っている。引き絞るように結ばれた口元には、いつもの優しい柔らかな笑みはない。  そんな彼のいつもとは違う姿に思わずこぼれそうになるため息を飲みこんだ。   『全てを終わらせに行こう』  そう言った彼の言葉が私の頭と心を占領していた。他のことなど一切入って来る余地もないほどだ。こびりついていると言ってもいい。普段と違いすぎるから、不安で仕方なくなっている。  友達以上、恋人未満の関係の私たち。この関係をいよいよ終わらせるときが来たのだと思うと、ホッとする反面、心苦しさが胸を締めつけた。  ただの友だちになるのか。  恋人として踏み出すのか。  それとも関係のない赤の他人として別々の人生を歩むのか。  どれを選ぶにしても彼に隠している『秘密』を、私は明かさねばならなくなるのかもしれない。  そう思ったら、今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。  だって、私は彼を利用している最低の女だから。  そんな自分をさらけ出したくなかった。たとえ、ズルい女だと罵られようとも――  ふと赤信号で車がとまる。ハンドルを握りしめていた彼の手が別のものを掴んだ。  一枚のCDケースだった。中からディスクを取り出すと、車に搭載されたオーディオ機器に黙って差し入れた。無音だった車内に小さくBGMが流れ始める。    知っている曲だった。  セリーヌ・ディオンの『ビコーズ・ユー・ラヴド・ミー』だ。『あなたが愛してくれたから』というこの曲に私はハッと息を飲んだ。急いで彼を見る。    もう一度息を飲んだ。  彼はなんとも言えない複雑な顔をしたまま私を見つめた。  悲しいのか、寂しいのか。それともつらいのか。  どれもが正解で、どれもが不正解な気がした。  複雑に入り混じった感情で曇る顔に、自然と私の体は震えていた。 「海斗(かいと)……あなた、知って……」  言いかけた私の言葉を遮るように、彼は人差し指を私の唇の上にそっと置いた。 「美緒(みお)、この曲が終わるまで待って。そうしたら君に全部話すから」  見つめる私に柔らかなほほ笑みを向けて、彼の指先はすぅっと静かに離れていった。その手が再びハンドルを力強く握りしめる。    車の中で伸びやかなセリーヌの美しい高音が流れ続けている。  歌姫の美しい高音域の歌声は走る車のエンジン音を掻き消して、ただ優しく私の耳をなでていた。
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