第四話 白い便せん

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第四話 白い便せん

 どれくらいの時間、優介がいなくなった場所にいたのかはわからない。ただ気づいたときには当てもなくふらふらと歩いていたことだけは確かだ。  周りのことはなにひとつわからないのに、優介が残した携帯電話の無機質な感触だけは嫌というほど感じていた。  すごく冷たい。その冷たさに指先が同化して、溶けていくような感覚があった。  だけど他はすべておぼろげだった。肌をなぞっていく風の温度も、その中に混じるはずの草木の青臭さもわからない。  街灯や住宅から洩れる明かりのまぶしさもにじんでぼやけて見えていた。 ――優介は確かにあの道を通ったんだ。  彼の携帯電話を握りしめて、ただ思った。  涙と鼻水が交じり合い、ひどい顔になっているけれど、拭う気にもならなかった。  帰るのが怖い。帰ったとき、彼がいない事実を知るのがものすごく怖い。 ――でも、もしかしたら?  これは夢で、彼は帰っているかもしれない。だけどすぐにそんな淡い期待に満ちた考えを捨て去った。彼との最後の通話が耳にこびりついていたからだ。 『えっ? まっ……美緒……!』  ノイズに掻き消された彼の声が脳内で再生されるたびに、心臓が異常な速度で鼓動した。その荒い鼓動音に引きずられるように全身が震えた。閉じているはずの口がわずかに開いてカチカチと音を立てる。  いっそこの目をつぶし。  この耳を塞ぎ。  この口を閉ざし。  動く心臓をひと思いに握りつぶしてしまえればいいのに!  ああ――  思いきりため息を吐いて空を見上げた。  心の中で土砂降りの雨が降っている。  それなのに、見上げた空はなんて穏やかなのだろう。月を覆い隠していたはずの灰色雲は彼方へと消え去っていた。  まるで何事もなかったかのように青白い月が笑っている。    ぎゅうっと力を込めて彼の携帯電話を握りしめる。  私だけが置いて行かれた現実がずんっと大きくのしかかってきて、膝が折れそうになる。  そのときだ。私の耳が聞きなれた小さな音を拾い上げた。自分の携帯電話の着信音だ。  不思議なほど一瞬で私の意識は覚醒した。ジーパンのポケットに突っ込んでいた携帯電話を慌てて取り出した。  見つめた先のディスプレイに浮かぶ『優介母』という表示に鼓動がより一層早まった。 「は……い……」  耳に押し当て、平静を装って電話に出た。だが、そんな自分とは真逆に相手は焦ったような早口で『美緒さん⁉』と私の名を呼んだのだった。 『優介と一緒にいる⁉』  優介の母のストレートな質問に答えを詰まらせる。この状況をどうやって説明したらいいのか、言葉がまるで出てこなかったのだ。 『美緒さん? 美緒さん? 大丈夫? 聞こえる?』  曇る剣呑とした声が機械を通して耳に落ちる。 「はい……」 『今、あなたたちのアパートに来ているの。とにかく帰っていらっしゃい。話はそれからゆっくりするから。いいわね?』  と――そう一方的に告げられて、電話は切られてしまった。  ツーツーと通話が途切れたと知らせる音がまた耳にこだました。  その音に思わず体がこわばった。嫌な汗まで出てきそうな感覚に、急いで終話ボタンを押した。そしてそのままジーパンのポケットにしまい込んだ。 「帰らなくちゃ……」  周りを見る。自分がいる場所を確認する。思ったよりも遠くにいた。歩いて帰るとなれば、それなりの時間を要することになる。  ふと手に握ったものに視線を落とす。財布だけは持ってきていた。  中身を確認する。五千円は入っているからタクシーに乗って戻ることは可能だった。  大きな通りに出てタクシーを拾ってアパートに帰る。  玄関を開けると奥の部屋から知っている顔が駆け寄ってきて私を迎えた。 「無事ね」  私の顔を見るなり、優介のお母さんは私の顔を包み込んでそう言った。涙に濡れる私の頬を拭って、安堵したようにほほえむ彼女の温かな手が私の凍りついた肌を溶かすようだった。  私は小さく頷くと、その手に誘導されるまま彼女の胸の中に埋もれた。 「お母さん、優介……優介が……」 「いなくなったのね」  彼女の返答に私の心臓がぐんっと大きく音を立てて跳ね上がった。息ができなくなる。  優介のお母さんの胸からゆっくりと顔を離す。私の顔を見つめの彼女の顔は真っ白くなっていて、血の気を失っていた。   「なんで知っているんですか? 私はなにも……」  優介がいなくなったことを私は誰にも告げていなかった。それなのにどうして彼女は知っているのだろうか?   その答えは彼女の後ろに寄り添うように立つ、もうひとりの人物から告げられた。優介のお父さんだ。 「実は30分ほど前に知らない男から電話があったんだ。『手紙を投函したからすぐに見てほしい。あなたのお子さんと同棲されている恋人の女性に関することが書かれています』と。誰か聞いたんだがすぐに切れてしまってね。それに電話番号もわからなかった。ナンバーが表示されなくてね。イタズラ電話かと思ったんだ。そうしたら本当に手紙が投函されていてね。急いで中身を確認して優介に電話をしたんだが、すでに繋がらなかった」  だから来たのだと優介のお父さんは告げた。 「それで……」 「お父さん、その話は奥でしましょう」  私の顔を見た後、優介のお母さんが少し強い口調で間に入った。優介のお父さんも気づいたように私を見つめた。 「そうだな。立って話すようなことじゃないな」    そう言って優介の面影を持った人たちは小さくうなずいた。  私は優介のお母さんに体を支えられるようにして居間まで歩いた。西の壁際に備え付けられたソファーに浅く腰掛ける。  彼女はそのまま台所へ向かい、三人分のお茶を持って戻ってくると、マグカップを静かに置いた。  向かいに座った優介のお父さんはすべてのカップがテーブルに並んだのを見計らって、黙ったまま私に一通の白い封筒を差し出した。  一瞬ためらいが生まれた。これを手に取っていいものかどうか。中身を見るのが怖い。  だけど、真っすぐ差し出し続ける優介のお父さんの意志に背けずにおずおずと手を伸ばした。  受け取って、小さく震える指先で封を押し上げると中身を取り出した。一枚の白い便箋を広げれば、そこにはよく知っている文字が並んでいた。  角が少し丸くなった字は、彼特有だった。私よりもかわいい字を書くねなんて揶揄したこともある。  ごくんと生唾を飲みこんでから、私は文字を追った。一字一句を逃さぬようにゆっくりと、だ。  途中で読むのをやめてしまいたい気持ちが膨らんでも、知りたい気持ちがそれを押しやった。  読み進めれば進むほど、目頭が熱くなった。おえつが喉をノックする。 「う……う……」  すべてを読み終えるや否や、投げ出すようにして便箋を膝の上に置いた。  両手で漏れるおえつを押し返す。  歯を食いしばっているのに声はもれてしまう。目から溢れる大粒の雫は白い便箋の上にぽとんと落ちて、ゆっくりと紙に滲む。  ボールペンで書き綴られた文字はその水滴に滲むこともなく、しっかりとその存在を主張し続けていた。雫だけが紙の中に溶けこんで、範囲を広げていく。 「……これが本当にあの子が書いたものなのかは私たちにはわからない。誰かが似せただけかもしれない。電話を掛けてきたヤツの仕業だという可能性もある。だから、とりあえず筆跡鑑定はしようと思っている。でも、あの子がいなくなったのは事実だ。そして鑑定結果が本当にあの子が書いた物だったとしたら……」  優介のお父さんは悲痛な面持ちで私を見つめていた。そこまで一気に話した後で一旦言葉を区切る。  重苦しい空気が私たちの中に落ちて沈んでいく。おえつで息苦しくなる私の背を優しくなでる優介のお母さんの気遣いさえ、針のように私の心を串刺しにしていく。 「君は優介のことを忘れなさい」  言ったすぐあと、優介のお父さんは奥歯を噛みしめた。その顔をこれ以上見ることができずに、私は勢いよく机の上に泣き伏した。もうがまんはしなかった。ありったけの声で叫んだ。いやだ――と。 『俺はもう戻れません。戻れない理由も説明できません。どうか美緒には新しい人生を歩むように伝えてください。俺のことを忘れるように伝えてください。しあわせになれと伝えてください。しあわせにできなくてごめんと伝えてください。美緒のしあわせを誰より願っていると伝えてください。愛していたと伝えてください。勝手でごめんなさい。親不孝な息子でごめんなさい。どうかわがままを許してください』  一方的な手紙だった。  一方的な別れだった。    理由は告げられず、ただ忘れてくれと。  幸せになってくれと。  愛していたと置き去りにする内容に、私の中には『絶望』の二文字しか湧いてこなかった。  なぜ、彼はこんな残酷な仕打ちをしたのだろう――それはほどけない鎖となって私をがんじがらめにした。    後日の筆跡鑑定の結果、手紙は彼のものだと、優介本人のものだということが判明した。  どうやってもくつがえらない結果を覚悟はしていた。  だけど、それでも私は信じたくなかった。  やむを得ない事情がきっとあったのだ。誰かに監禁されているのかもしれない。それならばなおさら、私が彼を見つけ出さなければ――私は彼を絶対に見つけ出すんだと心の中でひっそりと誓った。    その一方で、優介が失踪してから2カ月後にあたる2012年7月31日に、私はひとり、二人の思い出が詰まったアパートを出て行くことになったのだ。
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