サイレントマジシャン

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 家に帰って興奮気味に話した私に、父が「サイレントマジック」という言葉を教えてくれた。  それはしゃべらないマジック。そして、心でしゃべるマジックなのだと。  英語がしゃべれず、発音にも自信がない私でも、それならできるかもしれない……  マジックをやってみたいと言い出した私に、両親は惜しみなく手品グッズやハウツー本を買ってくれた。  ふさぎがちだった私が自分から何かをやりたいと言ったのは久しぶりのことだ。でもまさかプロのマジシャンになるとは思わなかったよと、後に両親は笑った。  私のマジックはクラスで評判になり、休み時間に見せてとせがまれることが増えた。他のクラスからも見にくる子が出てきて、なかなか学校に馴染めず言葉の覚えも遅い私の特技を、学校の先生も大々的に応援してくれた。  勧められて出場した学校主催のスター発表会で優勝した頃には、私はもうクラスの幽霊などではなくなっていた。  新しいネタを練習し、披露すれば喜ばれ、賞賛された。みんなが私を誕生日に呼びたがり、週末のたびにパーティーに招待されマジックを披露した。  中学生の頃には、有償でショーの依頼を受けるまでになっていた。  しかし転機は再び、中学2年生になる春に訪れた。  父のアメリカでの仕事の任期が終了し、帰国することになったのだ。夢にまで見た帰国だったのに、5年ぶりの日本での生活は、期待していたものとは違っていた。  大人になった今でも、自分の何がいけなかったのかは分からない。  アメリカでの生活やマジックの腕前を自慢したりは決してしなかったはずなのに。言葉が通じないわけでも「珍しいアジア人」でもないのに、私はクラスで孤立してしまった。高校を卒業するまで、心を許せる友達など一人もできなかった。  こつこつ練習は続けていたものの、マジックを披露する場がなかったことも、特技を封印されたようで辛かった。日本には子どもの誕生日にマジシャンを呼ぶ習慣もなく、誕生日パーティー自体の頻度が桁違いに少ないからだ。  高校で陰湿ないじめを経験した私は、アメリカの大学に進むことを決めた。  認められたい。またマジシャンとして、子どもたちを楽しませたい。勉強よりはそちらが主たる動機だったのに、渡米してからは意外な忙しさにマジックの時間を奪われた。  ネイティブのアメリカ人に混じって一生懸命勉強しないと、単位が取れない。週末にマジックショーでお小遣いを稼いで生活費の足しにしようと思っていた私は、ままならない生活に行き詰まった。  あのマジシャンに再会したのは、そんな日々に私が再び塞ぎ込んでいた頃だ。
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