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目玉専用の傘の右側を、空の最後の涙がぽつんと叩いた。
暗かった視界に、薄く血の色がかった模様が透かし出され、日が射してきたことを知る。
その光の温度で、河川敷の濡れた草が一斉に目覚めて葉を香らせ、存在を主張し始めた。むっとした空気が瞬く間に膨れ上がり、行き渡る。
目の上で重い一対の傘はまだ、その下で降る雨を持て余していた。
空のやつが大泣きするから、身一つで家から出てきて、付き合ってやったのに。勝手にひとりで、泣き止んでしまうだなんて。
……いや、自分に嘘をついても意味がない。
家を出てきたのは、明後日に控えた引っ越しの準備をして、段ボールに囲まれたら落ち着かなくなったから。
そして母さんの遺影が目につくワンルームで泣きたくなくて、雨に紛れさせてもらっただけ。
傘は転校してくる前の中学でなくしたきり。今の学校には、一度も雨が降らないうちに行かなくなった。そのまま明後日でさよならだ。
家の傘立ては今、もう誰にも使われない花柄の傘が専有しているけれど、それも明日には、不燃ごみになる。持っていったら邪魔だろうし、僕に花柄は似合わない。何より、ほとんど外に出ない僕に、傘は無用の長物だった。
だから、わざわざ雨の中に持ってくるものなんて、体くらいしかなかった。おかげでびしょ濡れだけれど、気にはならない。咎める人もいないことだし。
僕が先に泣き止めなかったことだけが、問題だった。
恨みがましくも、腫れぼったい瞼を開けて、はるか高みを睨みつける。
沈没しそうにどんよりと立ち込めていた雲が、いつの間にか白く軽やかに浮き上がっていた。
腕をのばしたのは、無意識の行動だった。湿った指先に、わずかな空気の動きが冷たい。
指の間から、狙い済まして射し込む眩しい陽光と、手の影とのコントラスト。
その厳しさに、我に帰る。
あの雲の正体まで知り果てているというのに、こんなことをするのは、あまりにも馬鹿げていると。
雨が上がって間もないにも拘わらず、河川敷一帯に人の気配が戻ってきていた。
眼下に流れる川は、多少の濁りこそ見えるものの、大部分は洗いたての空を映して、晴れやかなふり。
雨の名残は、むしろ陸の方に色濃い。体の下の雑草はしとどに濡れている。
その上に寝転がり同じく濡れそぼって、手など挙げている僕は、頭上を横切る通行人の影にどうやら訝しまれている。
おかしいのは空っぽの手だけであって、僕に不審な点など一つもないのに。
ゆらり、腕が揺れる。波風にさまよう難破船のように、寄る辺なく。掲げた救援要請の旗に、応える者を得ないまま。
あの空では神様が、皆を等しく見守っていると、教わったのに。
名前しか知らない祖父祖母も、どんな声だったか曖昧な父も、そこにいると――「私も」と一言、先日旅立った、母から。
歩道で蹴飛ばされた小石がぱらりと、斜面の草に弾かれて傍へ落ちてきた。一瞬ペースを落として、すぐに去っていくランニングシューズ。対してのんびりしているのは、あからさまにこっちを指す影の持ち主、さんざめく学生服の群れ。彼らは僕を見てはくれても、助けてはくれない。
やたら不規則なヒールの音が、男の人の声に寄り添い絡みつく。それを避けて行く自転車は、冷たい作り笑いのように軋む。対岸では買い物袋を提げた男の子が、泣きじゃくる女の子に手を焼いていて、その横をスーツのおじさんが小走りに通る。そこにいない誰かに、すみませんすぐ行きますと顔をしかめ、腕時計を光らせて。
彼らは僕を見てもくれないのだから、やっぱり助けてくれるはずがない。
熱を帯びた光が降り注ぎ、むき出しの肌だけが温まる。服の中の冷たさが際立つ。背中からぞくりと寒気がこみ上げる。
……この地面の上に、救いなんてものはない。
それはべつに、いいんだ。期待していないから。見知らぬ人の善意なんて、今さら信じられないから。
そんなものがあるなら、父さんが「親殺し」だったからって、母さんと僕がいつまでも「犯罪者の家族」呼ばわりされるのを、誰か止めてくれたはずだろう。母さんだってもう少し、僕のそばにいてくれただろう。僕は傘を失ったりしなかったし、わざわざずぶ濡れになりに来ることもなかっただろう……。
もしもし、神様。
聞こえていますか、母さん。
僕は「助けて」と言っているんですよ。
あなた達がここにいないのが、今になってあんまり悲しいので、助けてほしいんです。
この町に来たときも、その前の町でも、どうせろくな思い出は作れないと思っていたし、そのとおりになった。転々と移る家に、未練なんてなかった。
それなのにこの期に及んで、好きでもないこの町を、出て行きたくなくなった。こんな心なんてもの、もう手におえない。だから助けてと、言っているんですよ……。
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