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……ただ雲が流れていく。
やっぱり空は、人間が調べ上げたとおりの世界だ。図鑑を見れば、今や子どもにだって分かるんだ。広大な空にも人の知らない場所はほとんどない。もはや死者にも神様にも、空に隠れる場所はないんだって。
空に向けたこの手が虚ろなままということは、間違いない。僕が助けを求めれば、決して無視しない誰もが皆、今は空の住人のはずだ。
でも応えてくれない、つまりこの手が見えないのなら、皆、空にはいないんだ。
分かっている。そうじゃなければ――伝わらないと思っていなければ――こんな弱音、吐けるもんか。
神様。母さん。
本当は、空などないんじゃないですか? あの青く見えるところ、目一杯まで水が満ち満ちていて、ここはその水底。あなたたちは水面を抜けて、甘い空気のある、別の場所へ行ったんじゃありませんか?
底も底にいる僕は、空気と偽る水の中で、溺れているんです。頭にも胸にも詰まりきった、ごちゃ混ぜの感情が重くて、身動きできなくて。
僕を引き取ってくれる、母さんのお姉さん――伯母さんは、いい人なんだ。うちの事情を知りながら迎え入れてくれるのだし、厄介者の僕に笑いかけてくれる。僕の唯一にして膨大な量の友達、本の山に眉根も寄せず、自ら段ボールを持ってきてくれた。「全部詰めてくるのよ」と肩を叩いてくれた。そんな優しい人のところへ行くのに、僕は。
――あの笑顔の裏側ばかり、思ってしまう。疎まれて当然と分かっている。そのくせ明らかにされるのが怖くて、伯母さんの優しさを、信じることができない。
だけど明後日には、伯母さんの家に引っ越しだ。どんな顔で接したらいい? とても僕には分かりそうにない。不安と焦燥が、体の芯につっかえている。滞った血が、息が、固まった思考が、ますます僕を溺れさせる。
神様、母さん、だからどうか手を引っ張って、助けてはくれませんか。
なんならそっちへ連れて行ってくれても、いいんです。
……今、一緒に行かせてくれるくらいなら、最初から来いと言ってくれただろうな。
冷えてしびれ始めた腕を、地面に落とす。手元の草から水滴が跳ね、どこにいたのか蛙も続いた。ぼんやりとそれに目をやると、手より、足よりむこう、川の中で何かが光を反射しているのに気がついた。
こんなきっかけでもないと、泥のように地面と混ざって起き上がれなくなる。そんな気がして、体を起こした。頭の重みが、首を押し込めんとのしかかる。川の真ん中に立つ草に引っ掛かっているものの正体を、猫背ぎみに首を突き出して見定めた。
一本の傘が開かれたまま、転覆している。手元を上に、中棒をふらふら揺らして光らせ、誰にともなく合図を送っていた。
……傘ってやつは、どうも今ひとつ役に立たないんだな。
かぴかぴする目の上の薄皮、瞼という能無しに触れながら、思う。この傘は小さい頃から、庇うどころか降らせてばかり。しかも容易に腫れ上がるので、涙の痕跡を隠すこともできない。
立派に主人を雨から守っていただろうあの傘だって、人の手を離れただけで、なんて無力なんだろう。逆さまになっちゃ、僕の傘と同じようなものだ。
……それどころか、僕そのものじゃないか。空に手をのばして、見込みのない助けを求める同士。人知れずずっと、溺れ続けるもの同士。
情けなくて、見ていられない。
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