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立った瞬間、潮が引くみたいに体温が体の奥へ遠のいて、めまいがした。上着のポケットに小銭が入ったままだったのか、チャリンと硬質な音が耳を刺す。
よろめくまま踏み出して、それから一歩も止まらずに、川の中へ入った。
この町に来たばかりだった一年前、母さんとの散歩の途中、ふざけてここに入ったことがある。どうにかして、母さんを笑わせようと。あのとき、どうだったかな。思惑どおりになったんだったかな……。最終的に、服を濡らしたことを怒られたのは、憶えている。
ざぶざぶと膝で水面をかき分けて行く。足首に砂の粒の、小さく弾けるような感触。
そして、乱れる流れに大きく揺れる要救助者の手を、取った。
溜まった水をこぼして持ち上げる。黒い、大人用の傘だ。全体に薄い土色に汚れ、骨の接続部なんかの細かいところに泥が入っているけれど、壊れてはいない。
おまえは、誰に見捨てられたんだい。
声には出さず、そう問いかけた。やっと乾いた目に新たな雨が兆して、じりりと滲みる。
「あの――お兄ちゃん!」
……自分が呼ばれたとは思わず、対岸の斜面を小学生くらいの男の子が下りてくるまで、僕は傘を見つめていた。
「それ、その傘! パパのなんだ!」
頬を紅潮させて、僕の手元の傘を指差す。その背後でビニール袋の音がした。男の子が振り返ったとたん、小さな女の子が斜面を転がり、わっと泣き声を上げる。
「あっ、あーあ……待ってろって言ったのに」
妹なのだろう。助け起こしに走る姿を追い、僕は川を突っ切って対岸に渡った。
兄妹が駆け寄ってくる。女の子が涙を拭い、すがるように差しのべてきた手に、傘の手元を握らせた。
「ありがと!」
「本当に、ありがとう。これ、大切なやつなんだ。パパが最後に持ってた――」
「二人で入れる、大きい傘なの!」
さっき雨が降ったとき、どっちが持つかケンカしてたら飛ばされちゃって、雨宿りしてたら、その間に流されちゃった――と頭をかく男の子。隣でかん高い声を上げ、飛び跳ねている女の子。
……展開が急すぎて、何を言えばいいものか分からない。とりあえず、女の子が転んだ拍子にぶちまけた、買い物袋の中身を手に取った。兄妹も慌てて一緒に拾い始める。
それから男の子と二人、女の子の手を引いて、斜面を上がった。
すると犬を連れて通りかかったお爺さんが、「おやおや」と首にかけていたタオルを外し、僕の頭に被せた。
「まだ出てきたばっかりだから、汚れてないよ。風邪を引く前に、しっかり拭きなさい。返さなくていいからね」
そう言って、犬に引っ張られて行く後ろ姿。兄妹が口を揃えて「ありがとうございます!」と言うので、僕も急いでお礼を言った。
「ごめんね、私が取りに行くって言ったのに、お兄ちゃんが止めるから」
「だって、服を濡らして帰ったら、あの人に怒られるだろ……」
女の子が僕の上着の裾を引いて謝ると、なにやら男の子は項垂れる。
「いや、僕はもともと、濡れてたから……だから、気にしないでくれ」
もともと濡れてたってなんだ。
とっさに出た言葉の拙さに、自分で戸惑ってしまう。しかし二人は、僕が傘を持っていないのを見て納得してくれたようだ。
早く帰りなと促すと、男の子が「そうだ、遅くなっても怒られる」と叫んだ。妹の手を引き寄せる強さ。彼の不安と連動しているのだろう。
それを和らげられると思ったわけではない。ただ、思ったことが口をついた。
「怒られるのは――大切に思われているから、かも……しれないよ」
兄妹が目を丸くした。兄は驚いたように、妹は不思議そうに。
そして、ぴょこんと二人で頭を下げ、ビニール袋をガサガサさせながら走っていった。
細い腕にも、背丈にも不釣り合いな、汚れた長い傘と一緒に。
残されたのは、嗅ぎ慣れない洗剤の香り、タオルの感触。白く軽いその存在に、ふと思い出して空を見上げる。雲は幼い兄妹の頬のように、膨らみを茜色に染めつつあった。
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