シャボン玉 【妄想コンテスト・佳作】

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「冬だと、シャボン玉って凍るんだよ」  渡良瀬の楽しそうなその声は楽しそうに弾んで、教室の窓枠を通り抜けて、ふわふわと外へ飛んでいった。  まるでシャボン玉みたいに、高く、高く飛ぶ。  六月の入梅前の五時限目、昼休みあとの理科の実験は退屈だ。  産休代理の若い男の先生は、生徒に好き勝手に実験をさせて、自分は知らぬ顔で黒板に板書している。  氏名の頭文字が「わ」のため、出席番号末尾の渡辺<わたなべ>の私と、次の番号の渡良瀬<わたらせ>は、教卓からいちばん遠い隅の席をあてがわれていた。  しかもクラス生徒数は42名、グループ用の作業台は5人用。そのせいで、余り端数となった私達はたった2人、広々と作業台を使用していた。  昼休み後の眠気を覚ますように、私と渡良瀬は実験器具をおもちゃに遊び始めた。  *  出席番号が前後であるよしみで、渡良瀬とはよく話すようになった。  中二になった春、始業式後にクラス替えが発表された。けっして友達が多いとは言えない私は、知り合いがほとんどいないことに軽く絶望しながら、新たに所属することになる教室に入った。  担任が自己紹介すると、すぐに氏名順に指定された座席が発表された。先生が立つ教卓からほど遠い最後尾に着席した途端、後ろから声をかけられた。 「ラッキーだよな、俺達」  苗字のアイウエオ順であれば基本、渡辺の私は最後列が常連なのだけど、まさか、と私より後に着席するクラスメイトがいた。  男女混合の並び順、女子の中でも小柄な部類の私が振り返ると、そこには驚くほど背の高い学ランが満面の笑顔でこちらを見ていた。 「わ行って、何か特じゃねぇ?」 「えっと……」 「基本的に一学期は、苗字順の座席だろ。そうするとわ行だから、必然的に後ろの隅っこの席になるじゃん。俺達ラッキーだよな!」  まるで宝くじに当選したぐらいの幸運だ、とでも言わんばかりだ。 「ああ…。そう、ですね」 「俺、渡良瀬。よろしく、タメ語でいいよ」  あまりも馴れ馴れしい初対面だった。  仲良しの友達とクラスが離ればなれにかり、友達が出来るだろうかと少なからず不安を抱えていた私は、初日早々、その悩みを払拭することになった。  渡良瀬は背が高く、物怖じしない口振りのせいか、ぱっと見は威圧感があってとっつきにくく感じる。けれど、長身の割にひょろっと細く華奢な体つきをしている。  しかも、驚くほど幼稚だった。話の内容が、小学生男子レベル、それも低学年。そのギャップが妙に好印象を与えた。  身長153センチの私よりも子供っぽいところがある、それでいて、どこか飄々としていて憎めないキャラクター。  私の中で渡良瀬はそう認識された。  出席番号が並ぶため、当然ながら私と渡良瀬は授業内のグループで一緒になることが多い。取り立てて男子とよく話す機会がない私にとって、渡良瀬は異質だった。むしろ、二ヶ月経った今、クラスの中でいちばん話やすい相手になっていた。  * 「各グループ、実験結果をレポート用紙に報告しましょう」  淡々と指示する先生の声が、遠くから聞こえてくる。  二人だけのグループだからか実験をすでに終えていた私と渡良瀬は、暇をもて余しながら流し台でフラスコやビーカー等を洗い始めた。ガラスの器の中で洗剤を攪拌させた水面に、気泡が立っていることに気付いた。シャボン玉をつくって遊ぶことにした。  不意に、とっておきの話をするかのように満面の笑顔を見せる。 「シャボン玉って空中でふわふわ飛んでるじゃん」  渡良瀬が言い出した。 「触ると弾けるだろ? でも冬に作ると凍るんだぜ」 「うそ」  鉤型になっているガラスの管を洗剤液にぴしゃぴしゃ浸していた手が思わず止まった。 「……シャボン玉が凍るの?」 「信じられないだろ?」 「あ、でもそっか。シャボン玉液、水だもんね…。そっか」  クレンザー液を撹拌させたビーカーの水面に、カラフルな七色の光が反射するのを見て納得する。液体は氷点下で固体になる、と先生が言っていた。 「空中では勿論だけど、割れた後も地面に氷の固まりが残るんだぜ」  実験で使ったばかりのガラスの管に石鹸水を浸して、渡良瀬が息を吹き込んでみせる。  衛生的に大丈夫なの、と突っ込む間もなく、ぷくりと小さな虹色の球体が私と渡良瀬の間を阻んだ。 「こんな真ん丸じゃなくてもっとイビツでさ」  渡良瀬が作ったシャボン玉はまるまるとして、ガラス玉のような透明な表面に自由気ままに現れる虹色の先に、渡良瀬の学ランの色が滲んで透けて見える。  カラフルに反射する光をぼんやりと眺めて、ふぅんと私が声を鳴らすと、 「おい、渡辺、お前信じてないだろ?」   ムキになって渡良瀬が返してくる。 「いや、信じてないわけじゃないけどさ」 「俺、冬の朝五時半に本当に試してみたんだぜ?!」  朝五時半にシャボン玉。  寒空の下、ガタガタ震えながらシャボン玉で遊ぶ渡良瀬を想像したら、可笑しかった。 「中二にもなって馬鹿?」  私が口を開こうとすると、不意に外から風が舞い込んだ。  遮光カーテンがふわりとふくらんで、窓辺に横並びに座っていた私と渡良瀬を覆った。 (あ)  強風はカーテン生地に体当たりし、気が付けば私達の座る座席まで広がり、渡良瀬と私はカーテンの中にすっぽりとくるまれていた。  強風を受けたカーテンは膨らんで空間をつくる。カーテン生地は理科実験室の風景を遮り、渡良瀬と私達は二人きりの状態になっていた。  くすんだ緑色のカーテンの向こう、チョークが黒板の上を走る音が遠くに聞こえる。  先生も、他の座席のクラスメイトも誰一人、隔離されている私達に気が付いていない。 「何だ、風強ぇーな」  渡良瀬はカーテンに囲まれた状況を何と言うこともなく、続ける。  弛んだビニール製のカーテンの裾が、セーラー服の肩にかかるのを感じると、なぜか胸がきゅっと苦しくなった。 「こうしてると、俺達二人だけだな」  その言葉に私は恥ずかしくなって、慌ててカーテンを払った。 「お、何だよ。せっかくこのままサボれそうだったのに」  能天気な声を挙げる渡良瀬とは逆に、見慣れた理科室に戻ってほっとする。 「折角、秘密基地みたいだったのに」 「……秘密基地って」  やっぱり発想が小学校低学年男子だ。こんな布地一枚じゃ、防御力なんてほとんど皆無なのに。気が抜けて私は笑った。 「お。良かった、笑った」 「え?」 「一瞬、不機嫌そうな顔するから心配したよ」 「……不機嫌なんかじゃないってば」  こちらの動揺なんて気付いていないようだった。さすが低学年男子思考。  私が怒っているのかと気にかけてくる渡良瀬は、素直に心配そうにこちらを見る。  何だか調子が狂って、 「もう! 怒ってないってば」  否定しようとすると無駄に大きな声が出た。 「おお、怖っ」  大袈裟に渡良瀬がおっかなびっくりのポーズを取るから、全くもう、と憎らしくなる。 「冬にいつか見せてやるよ。本当だぜ」  屈託ない笑顔は弾けるようで、褐色に焼けた肌に窓から差し込む午後の陽射しが輝いている。  それは、氷点下の真冬の映像を一気に溶かすようで、流し台に置きっぱなしにのガラス製の実験器具がキラキラと笑っていた。  右肩にカーテンの重さが残っていた。  理科室に一瞬だけ現れた二人だけの秘密基地。それは何だか少し、気持ちの良い重さだった。
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