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「先生、赤ちゃん男の子? 女の子?」
一週間経った午後の理科の時間。
昼休み後の眠さをこらえるのも、渡良瀬と二人だけで作業台の座席に着くのも変わらない。
けれど、教壇には産休代理の男の先生はいなくなっていた。
その代わり、理科室にお母さんになったばかりの高梨先生が戻ってきた。
クラスの皆は、授業そっちのけで、生まれたばかりの高梨先生の赤ちゃんの話で盛り上がっている。
中学一年の秋に産休に入って以来の再会だから、皆が興奮するのも訳はない。高橋先生は分かりやすい授業と、若くて綺麗で、うちのクラスだけでなく、中学校みんなのアイドル。
優しくて、たまに雑談を交えてくれる、話の分かる先生だ。まだ二十八歳の高梨先生は、桃のようにうっすらとピンク色したほっぺたを下げながら質問に答えている。
「先生、赤ちゃんの名前は?」
「赤ちゃん可愛い?」
クラスでも発言力のある女子クラスメイトが、積極的にインタビューしているのを耳にしながら、ビーカーに水を汲んで実験の準備をする。
「こら、ちゃんと手を動かしてね」
叱りながらも高梨先生の語気は優しい。
今日も先週同様、あっという間にレポートを終えてしまおう。
そう決めると、ふと男子の冷やかすような声が挙がった。
「せんせー。何で赤ちゃんは生まれるんですかぁー?」
「あ、俺もそう思ってた!」
くすくす、とさざ波のような笑い声が理科室の中に広がっていく。
あからさまにその理由を分かっている確信犯な発言は、声変わりのしていないクラスメイトの男子のもので、私は呆れてしまう。
数日前に保健の授業で、男の人と女の人の行為についてVTRを見たのが生々しく思い返される。
いやらしい嬌声に、高梨先生は「今は理科の時間だからね」と、あしらうけれど、部屋中に広まった色めき立つ空気は一向に止みはしない。まるで、ビーカーの中の水に注ぎ込んだ溶液みたいに、みるみると色を変えていくみたい。
「今日も実験さっさと終わらせよーぜ」
隣から渡良瀬が話しかけてきた。
今週から夏服になったから、白い半袖シャツの渡良瀬はますます、夏休み中の小学生みたいに見える。運動部で焼けた黒い腕が覗く。
「そうだね」
「……高梨先生、大人気だな」
クラスメイトの質問攻めに合っている高梨先生を、渡良瀬も気にしたようだ。
リトマス試験紙に垂らした色の変化をノートに記録しながら、教卓の方を見ている。つられて私も教室の隅の席、遠くから先生を見た。
ぺたんこなお腹が紺色のスカートの下に隠れていた。
半年前までまるまるとしていたことを覚えている。ふくらんだ跡形もなく、本当にその中に高梨先生の赤ちゃんがいたとは思えなくて不思議に思った。
「せんせー。赤ちゃんは、男の人と、高梨先生が何かしたから出来るんですよねー?」
「やめなよ、男子」
言葉の続きを言いたそうな男子の声に、学級委員の女の子の声が被さる。
くすくす、だけじゃなく、女子からも下卑た声が混ざる。
一度混ざった水溶液は色が戻らないみたいに。
(ふくらんでいたのが、急になくなるなんて)
ふと、出産した高梨先生のお腹が赤ちゃんを生んだ瞬間、シャボン玉みたいに弾ける姿が思い浮かんだ。
元気な泣き声と一緒に、ぱちんと消える先生のお腹。
(何か面白い)
先週教えてもらった、凍ったシャボン玉のことを思い出した。
「渡良瀬、シャボン玉のことなんだけどさ」
左隣に座る渡良瀬は教卓の方を向いたまま返事しなかった。
「ねえ、渡良瀬。シャボン玉が冬に凍るって話」
聞こえてないのかと、私は繰り返した。
「……ん?」
渡良瀬らしくもない、静かな優しい声が返ってきた。
(なに、その声)
それは、聞いたこともない抑えた、大人びた声だった。
話しかける私を見ようともせず、シャープペンを握りしめたまま白いシャツは、話しかけたことのない同級生のようだ。
何だか胸がそわそわして、こっそり渡良瀬の横顔を覗き見る。
視線の先には、幸せそうに話を続ける高梨先生がいた。そっと先生をみつめる渡良瀬の表情は、興奮しながら凍ったシャボン玉の話をする時とは、まるで別人だ。
ガキで、早朝に震えながらシャボン玉を膨らます渡良瀬を想像させないくらい、男の人の顔だ。
(……渡良瀬、ひょっとして先生のこと好きだった?)
突然、そう気付いてしまった。
声をかけても振り返らない渡良瀬から、波のように私に伝わる。クラスメイトが放つ水面で浮き立つのとは違う、ビーカーの底で無音で指示薬に変化するようなさざ波だ。
(でも、先生のふくらんでいたお腹は)
伝わる波を、保健の授業で習った映像が頭の中で遮る。
弾けたお腹の前には、高梨先生が、誰か男のひととそういうことがあったってこと。
「渡良瀬っ」
喉がきゅっと絞られて蚊みたいな声が出た。
すると、今度はすぐに振り返って、見慣れた笑顔の渡良瀬がいた。
「なに、渡辺」
いつものように、渡良瀬が私に小学生の男の子みたいなおどけた顔を向ける。
よく見ると、目は笑っていなかった。
「……ううん、何でも、ないよ」
私は小さく呟いてうつむいた。
「お? そうなの?」
いつも通りに話しかける渡良瀬へも、黒板の前に立つ高梨先生へも視線を避けた私の視界の先には、作業台脇の流し台があった。
数分前に終わらせた実験器具が、銀色に光るの排水溝の近くに、置きっ放しになっている。たくさんの実験器具が積まれている一部、石鹸水の入ったビーカーの水面に、小さな気泡が立っていた。
それは、小指の先っぽ程の大きさのシャボン玉だった。
私は、それをそっと人差し指で突付いた。
その時、ふわりと午後の風が、教室の外から窓越しに吹き込んできた。
けれど、そんなに勢いはなくてカーテンは風を受けてふくらむことはなかった。
「シャボン玉が凍る話なんだけどさ」
話題を思い出すかのような声で、渡良瀬が話しかけてくる。
ビーカーに現れた小さなシャボン玉は、凍っていないから、私の指先ひとつで、ぱちんとかすかな音を鳴らしてあっという間に消えてなくなった。
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