第三章 大貴

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第三章 大貴

   初めて会った時、なんて綺麗な人なんだろうと思った。  男だとか女だとか、子供だとか大人だとか、その人が何なのかを判断する前に、大貴はその手を掴んでいた。 「お前の学校どこ?」  低いのにやわらかくずっと聞いていたくなるような声だった。 大貴が小学校のある方向を指差すと、その人は舌打ちして、「俺の逆!」と笑った。花が咲いたみたいだった。 「よいしょ、案外重いな」  気づけば体を持ち上げられて、自転車の後ろに乗せられた。ランドセルに引っ張られて後ろへとぐらつく大貴を、その人は少しだけ意地の悪い笑顔で眺めた。でも、結局は「貸せよ」と言って、ぶかぶかの紐を引っ張って、その時大貴がこの世のものとは思えないほど重たいと感じていたランドセルを前のカゴに乗せてくれた。 「掴まってな」  促されて掴んだ腰は、子供でもわかるくらい薄っぺらくて細かった。きらきらと、明るい髪の毛が風になびき、輝いていた。 「いつからこの団地住んでんの」 「……少しまえから」 「そっかー。気づかなかった。何年生?」 「にねんせい」  誰の声よりも聞き取りやすかった。母親の声よりも、一緒に暮らしている母親の恋人の声よりも。 「どうりで小せえはずだわ」  自転車が前に進む度、擦り剥いた膝が、風を受けてスースーした。痛かったけれど、痛いだけではなかった。新しい自分が、そこから顔を出すような、土の中で眠っていたのを見つけてもらったような。そんな感覚だった。  あっという間に校門の前に到着した。 「はい。行ってきな」 自転車から下ろされ、ランドセルを渡された時は少しだけ焦った。もしこのまま、もう会えなかったらどうしよう。  同じところに住んでいるとたしかに聞いたはずなのに、心配だった。 「あ……」  また会いたい、という簡単な言葉を知らなかった。「また会える」ことは、大貴にとって当たり前ではなかった。「おとうさんだよ」と言って、母親の隣で大貴を可愛がってくれた人が、数日後には冷たい目をして出て行く。母親は泣いている。そんなことが何度もあった。 「あたらしいおとうさん」と住むために、この街にやって来た。いつだって母親に手を引かれるままくっついてきた。その度「ふるいおとうさん」には会えなくなった。もう会えないと思うと少しさびしかったけれど、いつも時間が経てば忘れた。そういうものなのだと思うようになった。 嫌だと思ったのは、初めてだった。この人に、また会えないのは、嫌だ。 「じゃな。またな」  不安を察知されたのか、あるいは、何の気なしにとった行動だったのか。温かい掌がぐちゃぐちゃと大貴の頭を撫でた。乱暴な仕草なのに、ひどく安心した。  またな。   その人はそう言ってくれた。そうか。また会いたい人にはそう言えばいいのか。  にぃっと笑うと、その人は自転車に再び跨って、来た道の方へ自転車を漕いで行った。学校のチャイムが鳴った。前の学校でも、何度も聞いた音のはずなのに全然違って聞こえた。 自転車が角を曲がるまで、校門に立って、ずっと見ていた。 「またな」――その言葉通り、その人は次の日も、その次の日も大貴の前に現れた。毎日会うための理由は、すぐに見つかった。 「お前んち、とうさんもかあさんも出かけてるの?」 「何食ってんの? 嘘。パン?」 「作ってやろっか。俺んちもかあちゃんいつもいないし。一緒に食お」  その人の作った料理を、毎日一緒に食べた。親にほっぽり出された子供が二人、身を寄せ合って食事する――今なら児相が飛んでくるような話なのかもしれないけれど、大貴はずっと、楽しかった。多分お互いに、楽しかったのだろう。  だから続いた。三年前、団地を離れることになるまでずっと、大貴は毎日、その人に会うことができた。  がくんと体が揺れ、目が覚める。えーと。ここは。どこだっけ。なんだっけ。 「起きたか」  寝ぼけた頭の中に滑り込んできたのは、剣崎の声だった。鼻をつくガソリンのにおいでロケ地に移動するバスの中だと思い出す。 「あー……俺、どれくらい寝てた?」 「二十分くらいか」 「そっかあ。めちゃくちゃいい夢見た……」 「嘘つけ、うなされてたぞ」 「……もう着く?」 「ああ。準備しとけよ」 「はーい……」  準備、と言っても目を覚ますことくらいしかやることがない。とりあえず水を飲んで、叩き込んだ台詞を反芻する。台本は開かない。一回覚えたら、自分の中で繰り返すにとどめる。その方が、自分の言葉になるような気がするからだ。 『大丈夫だから早く行け。俺がなんとかするから』 『お前はいつも通り笑ってろ。父さんと母さんに何か聞かれても図書館にいたって言え』 『泣くなって。大丈夫だから。早く!』  今回の台詞は、すんなり覚えられた。兄妹の絆を描く物語で、大貴の演じる主人公が、強姦魔から妹を助け、逃すシーン。この時、主人公と妹との揉み合いで強姦魔は頭を打って死ぬ。平穏な暮らしが一変する、物語序盤の山場だ。  台詞を反芻しながら、馬鹿だなあ、と思う。自分ならこんな風には言わない。意識を失った強姦魔を、放置するなり埋めるなり、全部妹と一緒に決めて、一緒に家に帰る。泣きながら夜道を帰らせたりしない。 「そういえば、大貴。これ」  剣崎がスマートフォンの画面を見せてくる。そこには、ネット書店の売り上げランキングが表示されていた。「雑誌」カテゴリの二位に、先日撮影した「FILMS」が食い込んでいる。レビューも溜まっており「これは買い」だとか、「永久保存版」だとか、高評価がつけられている。 「忙しくなるな」  と、剣崎に言われ、そうならなきゃ困る、と大貴は思う。もともと、この世界に入るつもりも、長くいるつもりもなかった。でも途中で気づいた。嫌でも人の目につくところにいれば、画面を介して会えるんじゃないか。いつか、本当にまた、会えるんじゃないか。 「関さんの写真、やっぱり評判いいな」  剣崎が言う。 「関さん……? ああ、あの人か」  なんとなく苦手なカメラマンのことを大貴は記憶の隅から引っ張り出す。 「お前なあ、いい加減覚えろ。ほら、このレビュー見てみろよ」  剣崎が画面を何度かタップする。 『見応えのあるグラビア。俳優を剥き身にする手腕』というタイトルの下には、つらつらと写真に対する印象が続く。 『自分は坂口大貴という俳優は、近年出ては消えを繰り返す若手俳優群の一人なのだと思っていた。でも、今回これを手に取り、それは間違いだったと考えを改めた。整った顔立ちなのに、いわゆる美少年とは違う力強さと、笑っているのに寂しそうな、枯渇したような表情。それらが矛盾しながら同居する人間らしさは、もっと見てみたいと思わせる力がある』 「だってよ、よかったな」  ぽん、と剣崎は大貴の肩を叩くと、徐行していくバスの中で下りる支度を始める。 「うーん」   大貴は首を傾げながら、脱げ掛けた靴を履き直す。 寂しさや枯渇を、表に出したつもりはない。むしろ、能天気に振舞っているつもりだった。関のぎょろついた目を思い出す。レビューを真に受けるつもりはない。でも、普段大貴が貼りつけているマスクを、関の写真が本当に暴くのだとしたら。 「剣崎さん、俺、あの人にあんまり撮られない方がいい気がする」 「なんでだ」 「バレそう、全部」  そこまで言うと、受け流していた剣崎も支度の手をゆるゆると止める。  大貴がこの世界に入った時、担当役員と剣崎と三人で作り上げた盛大な嘘。出身地も変えて、家族構成も変えた。大貴の知らないところで、おそらくいくらかの金も動いたようだった。その結果なのか、誰からのリークもない。 「写真だけじゃバレないだろ」  と、剣崎は言った。たしかにそうだ。いくら内面を暴かれたとしても、実際に起きたことまでもを写真が語ることはない。  なのに、なんだろう。この胸騒ぎは。いつもなら意思疎通しやすい剣崎にさえも、大貴はそれを上手く伝えられなかった。もやもやする暇もなく、バスは目的地に到着した。  担当役員に呼ばれたのは、それから数日後だった。  いくら本人が不安に思おうが、大人の事情が幅をきかせる世界だ。「FILMS」の好調な売り上げを受け、所属事務所はすぐに関と大貴のタッグでの企画を考え始めた。その話は大貴の知らぬところで粛々と進められていたようだった。 「えっ、写真集……」  まるでとっておきのプレゼントを渡すような顔で、役員は決定事項として告げた。関が監修につき、大貴のファースト写真集を作る。わざわざ役員室まで呼び出されたので何かあると思っていたが、大貴は動揺し思わず隣に立つ剣崎を見つめる。  剣崎も初耳のようだった。しかし、この段階まで進んだ話を止める術はないと判断したのだろう。再び役員の方へ向き直ると、手帳を開き、メモを取り始める。 「時間がない。関さんは五月以降個展の準備でもう埋まっている。映画の撮影と並行するから、海外ロケは無理だ。色々制限されるが、関さんは、大貴、お前とならぜひやりたいそうだ」  俺はやりたくない、と思ったが、断る余地はもうない。 「……わかりました」  なんかあって困るのはあんたたちだぞ。どうなっても知らねえぞ。恨み言が零れ落ちそうになるのをどうにか飲み込む。しかし、それだけでは終わらなかった。 「これが企画のラフ案だ」  にやりと笑い、役員が紙束を差し出す。 「大貴。関さんは、お前のバックグラウンドなど何も知らない。ただ、時間もない、海外ロケも無理、映画のことを考えるとビジュアルも変えられない。その前提で何ができるか、考えた上でそれを出して来た」  何が出て来ようが、やらなければならないことには変わりない。無関心に表紙をめくったが、目に飛び込んで来た文字列に、思わず声が出る。 「は?」  馬鹿なのか?  はかりかねて役員の顔を見据えれば、 「真実スレスレの方が、売れるだろ?」  などと言って笑う。金のなる木を見つけた大人の顔はいつだって気味が悪い。 「でも、バレたら」 「バレるわけないさ。お前をデビューさせる時だって、あれだけ手を回したんだ」  大貴は、はあ、とため息をついて、もう一度手元の資料に目を落とした。いつも冷静な剣崎からも、狼狽の気配が伝わってくる。 『U地区で撮る・坂口大貴二十歳の光と影』  白い紙の上には、はっきりと、そう印字されていた。  U地区は治安も悪ければ、アクセスも悪い。  東京から電車で二時間ほど。まずは船麓というターミナル駅で降り、そこから四十分ほどかけて車で行く。  関との待ち合わせ場所は、船麓駅直結のホテル内にあるラウンジだった。大貴と剣崎が向かうと、関は既に到着していた。 「やあ、大貴くん。また一緒に仕事ができて嬉しいよ」 「ありがとうございます。関さんに撮って頂けるなんて光栄です」  結局、急なことでお互い予定が合わず、挨拶も打ち合わせも撮影当日となった。  相変わらず不気味な目だ。  そう思いながら大貴は差し出された手を掴んだ。今度は躊躇しない。強く握り返し、精一杯の厚ぼったいマスクを貼りつけ、笑ってみせる。もはや、自暴自棄だった。とにかくビジネスライクに振舞って、さっさと終わらせる。完璧にこなして、間延びを許さない。それだけが今、大貴にできる唯一の抵抗だった。  写真集の撮影期間は丸二日。  映画ロケの真っ最中にぶち込まれたが、剣崎がなんとか調整して実現した。不義理なことが嫌いな剣崎は「面倒臭えことやらせやがって」と憤慨しつつ、監督の高遠からも快諾を得ると言う手腕を発揮したのだ。 「U地区のことは、知ってるよね?」  コーヒーを啜りながら、関が尋ねる。 「……はい。ニュースとかでよく」  我ながらしらじらしいと思いながら、そう口にする。 「はは。そうだよね。実は僕、結構あの街が好きで時々撮りに行くんだ」 「え……」 「色んなものから取り残されたみたいな街だろう。時代からも、安全からも、倫理からも。そこで暮らす人々の顔は、東京にいる人たちとはやっぱり違う。今の日本だと撮れない顔があの街にはたくさんある」  関が喋る度、ヤニに黄ばんだ歯がちらつく。関は巨大なナイロンバッグから何かを取り出し、大貴の方へとテーブルの上を滑らせる。 「どうぞ」と促され、大貴はそれを開く。  一ページ目は、高架下に並ぶ段ボールハウスの写真だった。二ページ目は、晴天のもと、濁った目で競馬新聞を読む人々。 ゆっくり見ろ。何食わぬない顔でいろ。頭ではそうわかっているのに、ページをめくる手が止まらない。  破れかぶれの提灯に群がり酒を求める人々。U地区にしかないスーパーの袋をぶら下げた親子。毎日のように、学校帰り歩いていた海沿いの道。老人ばかりが住んでいる古びた家。半分以上シャッターの商店街。  そして、次のページで大貴は手を止めた。  夢ヶ丘団地。通称、幽霊団地。ここ数年で、凶悪犯罪の代名詞のようになってしまった場所。  そこには大貴の実家がある。三年前に離れた、帰りたくても決して帰れない場所だ。 「こういう場所に君を立たせたらどうなるんだろう」  膨大な記憶の渦に飲み込まれそうになるのを、関の声が止める。 「見てみたいんだ。ゴミ溜めのダイヤモンドみたいに輝くのか――それとも、案外、溶け込むものなのか」  大貴は唇を噛みしめた。口が開かないようにだ。一度開いてしまえば、汚い言葉しか出てこないような気がした。 「他の子だったら何となくどうなるかは想像がつく。君だけ想像がつかない。だから試してみたかった」 「……面白そうですね」  代わりに声を発したのは、剣崎だった。  大貴の限界を感じ取ったのかもしれない。剣崎にしては珍しく身を乗り出し、スケジュール帳を開くと行程についてのすり合わせを始める。 「そうしたら、この後ロケバスでU地区に移動。十二時前後に着いたとして……明るい間は高架下とか、商店街、海、ですかね。この地域の人々は、写真撮影とかは大丈夫なんですかね」 「ああ、そうですね」  関も、視線を大貴から剣崎へと移すと事務的なやりとりを始める。 「写真はいきなり撮り始めるのはご法度です。特に高架下なんかは人が多い。まあその辺は、僕が結構慣れてます。大丈夫です。一応警備の人もつけてもらってるし危険な目に遭う心配はありません」 「そうですか。じゃあ、よろしくお願いします。これ飲んだら移動しましょうか……あ、結構移動長いですよね」 「トイレ、行っときましょうか」 「関さん、先にどうぞ」  剣崎の誘導で、関は「じゃあ」とラウンジを出て行く。 「ひでえ顔」 姿が見えなくなると、剣崎は大貴に声を掛けた。 「いや、もう。何、あいつ……」  大貴はやっと、噛み締めていた唇を解いた。本人が消えたので罵声は漏らさずに済んだ。 「気持ちわりい。マニアだな、あれは」 「いや……わかる。わかんだけどさあ」  たしかに、関のようなタイプは時々U地区に紛れ込んできた。自分と縁遠いものだからこそ、勝手に魅力を感じて、観光気分で足を踏み入れるのだ。大貴もよく、カメラを手にした外国人や、浮かれた大学生に声を掛けられた。そして彼らの大半は、うわべだけの景色を見て満足して去って行く。  もともと住んでいる者からすれば「馬鹿じゃねえの」という感じで、それ以上の感想は特にない。それでも、関の態度が、醸し出す空気が異様に引っかかるのは――似ているからだ。前にも、一人だけ、そういう奴がいた。薄ら笑いを浮かべ、「ゴミ溜め」に近い言葉で揶揄する癖に、浅いところで終わらない。 すごく深いところまで土足で入り込んでこようとする。そういう奴が、前にもいた。  関を見ていると、そいつにまつわる嫌な記憶が蘇るのだ。 「あー……剣崎さん。助かった。殴るとこだった」 「殴んなよ」 「早く終わんねえかな、これ」 「俺もそれを祈る」  二人してため息交じりにつぶやく。関がラウンジへと戻ってくるのが見える。憂鬱な二日間が始まる。  これまでに、こういった撮影の前例はないという。  それもそのはずだ。U地区の犯罪発生率は、全国一位と言われている。  平和な国、日本においても、この街の名前を聞くと人の見る目は変わる。たしかにこの数年の間に、U地区のイメージをより悪化させる事件がいくつか起こった。  そのすべてには夢ヶ丘団地、通常、幽霊団地が関係していた。  たとえば今年、猟奇殺人で指名手配されていた男が、U地区で身柄を確保された。その時彼は、半ば廃虚と化した幽霊団地の一室に身を潜めていた。  その前は外国人グループによる連続強盗殺人事件だった。U地区は、二つの県を跨ぎ、不法滞在者も多い。監視の目を潜り抜けるのに適していると判断したのだろう。彼らもまた、団地の空室をピッキングで開け、連絡拠点として使っていた。  そして、三年前。  一人の少年が、複数の少年からリンチを受けた。被害者の少年は意識不明の重体。隣街にある総合病院の息子だった。暴行は団地の一階敷地内で行われた。加害者の少年たちに指示を出していたのはこの団地に住む鳶職の男だった。
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