前編

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前編

「アーロンはこの土地に来たことがあるのか?」  エシュがいった。騎乗竜の背から飛翔台へ飛び降りた直後だ。アーロンの方へ顔を向けて話しながら竜の首から堅い装具を取り外している。騎乗竜は幼いころからこの装具に慣らされるが、エシュは彼らに長時間この金属をつけるのを嫌った。アーロンもそれは知っていた。 「ない」  ぶっきらぼうに答えるつもりはないのだが、最近この友人に面と向かうといつもこんな風になってしまう。そんなアーロンにエシュはにやっと笑った。肩にかかるほど伸びた黒髪は士官学校の規律では違反すれすれなのだが、エシュは注意されるまで切らない。黒髪の隙間にところどころ金色の筋が輝くのは生まれつきらしい。  学生のあいだでも教官のあいだでも「絵にかいたようなくそまじめ」で有名なアーロンとしては、時々ひとこといいたくなるのだが、エシュの肩先で日光に反射するように金色がきらめくのをみると何もいえなくなってしまう。しかもそのたびに胸の底に、竜の鉤爪でひっかかれたような痛みが走る。 「でも、この地方を制圧したのはヴォルフ様だろう。休暇に連れてきてもらわなかったのか? 昔はいざ知らず、いまや風光明媚な観光地だ」 「父はそんな性格じゃない」  エシュの眼が細められた。面白がっているのだ。この父にしてこの息子といいたいのかもしれない。自分のくそまじめな性格の一部が父譲りなのはアーロンも承知していた。だがエシュはそれ以上何もいわず、金属の装具を肩にかつぐと竜とならんで厩舎の方向へ歩き出した。  いつも器用なものだと思う。騎乗竜の首の装具は飛行の制御のかなめになるもので、見た目より複雑な機構を持っている。普通は視線を向けずに、また片手で外せるようなものではない。だがエシュはらくらくとやってのけるし、竜の方もまるでエシュに協力しているかのようだ。ながい翼が折りたたまれてうろこの生えた足の両側に垂れ下がる。慣れた犬のようにエシュの横についていくのをみると、アーロンはいつも不思議な気持ちになった。ここまで簡単に竜が懐く士官候補生がいるものだろうか? 予備学校でも士官学校でも、騎乗竜に悩まされない生徒はほとんどいない。 「エシュは――」  アーロンも自分の騎乗竜の装具を持ち、足早にエシュの横に並ぼうとする。頭の上で宝石のような竜の眼がアーロンをみつめた。縦長の虹彩がさらにほそく縮み、アーロンを品定めするようにみる。 「どうなんだ。ルー様によく連れていってもらったのか?」 「ああ。養子になる前……予備学校に編入する前」  エシュはまたにやっと笑う。友人がこの土地と同様に、過去に制圧されたとある地方の出身だということをアーロンはつい最近知った。エシュと知り合ったのは何年も前で、そのとき父に友人のルー将軍が彼を引き取ったと聞かされたのだが、出身地までは教えてもらえなかった。  エシュの出自が噂になり、彼の学外での素行(寛容な教官でも眉をひそめるような事柄が含まれていた)もその出自なら納得だ、といった話がささやかれていたのは二か月ほど前、士官学校の最終試験を目前にした時期だ。学外での素行についてなら、エシュは数日の謹慎処分だけで、極端な結果にはなっていない。だがアーロンとならんで最優秀で試験を通ったにもかかわらず、卒業考査の結果はアーロンは総代、エシュは下の上というところだった。 「狙い通りだな」  腹の立つことにエシュは成績発表のときこううそぶいたものである。この野郎、とアーロンは苦々しく思い、くどくどと小言もいったのだが、エシュはにやっと笑ってかわしてしまう。その笑顔にイラつきながらもエシュから離れられない――離れたくないと思うのはどういうわけなのか。  ともあれ、ふたりとも秋から軍大学へ進学することは決まっている。アーロンは新入生代表、エシュはただの学生として。もっとも彼がルー将軍の養子であることは多くの人に知られていて、これも逆に彼の評価をゆがめていた。 「今年は雨が遅いらしい。幸運だった」とルーがいった。 「明日まで騎乗竜を休ませてから出発する。雨季がはじまると移動が厄介だからな、よかった。竜の世話はもうエシュがすませたな?」  アーロンの隣でエシュがうなずく。 「だったら明日まで好きにしていい。二本の足で歩き回る分には問題なかろう」  山肌にこびりつくように存在している小さな町だった。立ち寄るからには支配の〈法〉にとって何かしらの意味がある地区のはずだが、この町にルーが寄ると決めた正確な理由はいまだアーロンにはわからなかった。  軍大学へ進学する前の休暇のあいだ、自分の随行員として視察に同行しないか、とアーロンの父を通じて持ちかけてきたのは、ルーの方だった。視察といっても公式行事ではなく、内々に地区の拠点を巡るもので、ルーにかぎらず、軍の高官がこういった機会に眼をかけている学生を随行させるのは珍しいことではないらしい。アーロンはふたつ返事で承知したが「エシュも行く」と聞いたとたん、固まった。 「問題があるのか?」父は不思議そうにいったものである。「エシュとはあいかわらず仲はいいんだろう」 「もちろん。大事な友人です」 「例の素行問題が気になるんだろう。だが、エシュは騎乗竜の扱いがうまい。おまえを選んだのは成績ゆえだろうが、期待にこたえてやれ」  ルーと同じく軍の高官である父の指示はアーロンにとって命令に等しい。それからはじまった旅の最初こそ、養子であるというだけの理由で――少なくとも周囲はそう判断した――エシュが選ばれたことにいい顔をしない者もルーの随行員にはいた。しかしひとたびエシュの騎乗竜をあつかう腕をみると、表立っては何もいわなくなった。  実際、竜にかぎらず士官学校でのエシュの成績は抜群だった。だから学内での多少の逸脱もある程度は見逃されていたかもしれない。しかし二か月前の噂が正しければ、学外のエシュの逸脱は「多少」どころではなかった。別の名と顔を使い分け、まさしく別人として賭けゲームや売春まがいのいきずりの遊びを繰り返していたというのだ。  噂のきっかけは行政庁の職員の汚職事件だった。アーロンはいまだに真実を知らないままでいる。しかし聞こえてくる情報をつぎはぎすれば、売春とまではいかなくとも、いきずりの遊びは事実のようだった。  士官学校での最終成績を「狙い通り」といったエシュを思い出すたび、アーロンは不穏な感情に悩まされている。なのにいまだにエシュに正面からたずねることができない。くそまじめなアーロンの倫理はエシュをおかしいと思っていたが、それでも彼とは友人でいたかった。 「エシュ、どこへ行く?」 「町見物さ。おまえも行かないか?」  さっそく外へ行こうとするエシュを呼びとめてたずねると、逆にあっさり誘われた。この町の建物は崖を段々に彫ったような狭い土地に密集していた。細い路地が糸を思わせるうねりをつくりながら家々のあいだに伸びている。小さな町だから単純な道にちがいないというアーロンの思いこみはあっさりと裏切られる。しかしエシュはまったく迷いを感じさせない足取りだった。これも竜をあつかうのと同じく、アーロンをいつも驚かせる彼の能力だ。  建物の切れ目からは岩山の点在する広大な森がみおろせる。町の後背は一見したところ岩盤がむきだしの山肌だが、合間に細い小さな農地とレアメタルの鉱脈があるのをアーロンは〈地図〉の複製で学習していた。二十年前、帝国はレアメタルの乱掘を防ぐために派兵した。アーロンが生まれる前、父ヴォルフが指揮をとった作戦である。戦いの結果この地域は山地もふくめて丸ごと〈法〉によって〈地図〉化され、すべてが帝国によって管理されている。  遠い昔には、地図と呼ばれるものが紙に描かれた平面の図だった時代があるという。いまの〈地図〉はそれとは似ても似つかない。対象が支配の〈法〉で制圧された結果、その精髄(エッセンス)が凝縮したものが〈地図〉のキューブだ。人間を地図化するのは禁じられているが、原理的に、あらゆるものは〈法〉で〈地図〉となり、〈地図〉によって理解し、管理することができる。  帝国の軍人はあらゆる子供の憧れの職業だった。一般人は地図を利用するだけだが、軍人は地図を作るための〈法〉を行使するからだ。〈法〉を自在に扱うには素質と道具と訓練が必要だ。いったん帝国に制圧されて地図化された地区は平和になり、行政機関の調整局が適切な管理を授ける。稀に帝国に対して抵抗を続ける地区もあるが、今のこの町には無関係だった。  街路は清潔で、道端のベンチでは人々がぺちゃくちゃと緊張感のないお喋りをしている。アーロンのすぐ前を歩くエシュの黒髪が肩で踊る。知らない町の道をたどる彼はいつも楽しそうで、好奇心に満ちた眸が素早く動く。そんな彼をみるのがアーロンは好きだった。最初に彼に会った時から、ずっとそうかもしれなかった。 「アーロン! 座らないか?」  路上にカラフルな日よけを伸ばしている酒場(バル)の前でエシュがいう。カウンター席だけの店内は狭く暗かったが、彼が指さした先のケースにはカラフルな食べ物が並んでいた。エシュがたずねると、カウンターの中の男はふたりをじろっとみつめて口早に説明をする。あいにくアーロンには聞き取れなかった。エシュには聞こえたのかと思ったが、そうでもないらしい。それでも彼はうろたえず、ケースの中を指さして得体のしれない食べ物を選び、紅茶もふたつ注文した。  紅茶は熱くて甘かった。出された食べ物をひとくちかじると爽やかな香りとコクが広がった。草竜の肉をつめたパイだ。竜の尻尾の先のようにぐるりと巻き、尖らせた形をしている。 「軍人じゃないね」  カウンターの中の男がいった。質問ではなく確認のようだった。 「いずれそうなるかも」とエシュがこたえた。 「学生か。誰かについて来たのか?」 「俺たちは進学する前の休暇中だよ。この地区には一度来てみたかった。ほんとうは雨季にね」 「ほう」カウンターの男は急に興味を持ったようだった。「どうして?」  エシュは肘をつき、両手で慎重にもちあげた紅茶のカップから一口すすって、うすく微笑んだ。カウンターの男と眼をあわせている。その様子にアーロンの胸の内側がざらついた。  やっぱり俺はどうかしているな、と内心思う。エシュがこんな風に他人とやりとりしているのをみると、たまらなく落ちつかない気持ちになる。同時に、これは全部エシュのせいだ――と責めたい気分も腹の底でゆるりと鎌首をもたげるのだった。こんな風になったのはエシュの学外での「素行」を知ったあとのことだ。ひょっとして彼はいつもこんなふうに誘ったのだろうか? そして――?  カウンターの男はアーロンの葛藤など知るはずもない。いまや、さっきまでの不愛想も感じさせない様子でエシュと気さくに言葉をかわしている。 「ここの山、雨季は野生の竜が来るんだろ」とエシュがいった。「今はいない?」 「どっちかといえば竜が雨を連れてくるんだ。そういわれている。野生っていったな――まあ、そうもいえる。実際ただの野生の竜もいる。雨の竜はそうじゃない」 「へえ?」 「まだ〈法〉の支配に入ってない竜だ。地図化されていないから、どこから来るのかもわからない。雨の竜のあとを追って雨季が来る――とまあ、いわれている。ただし竜を見た人間はいない」 「なぜ?」  エシュは無邪気な声でたずねた。カウンターの男はグラスを磨きながら「当たり前だ」という。 「生きて戻らなかったのさ。地図化されていない竜は危険だ。町の裏側から山地へ入るあたりは道も整備されてて、ちょっとした散歩には抜群だが、山は山だ。竜に遭遇することもないとはかぎらない」 「景色がいい?」 「絶景だよ。騎乗竜の背中じゃ落ち着いて眺められないだろう?」 「そうかもな」  アーロンは黙ってふたりの話を聞いていたが、カウンターの男がエシュにチラッとまなざしを送ったのを見逃さなかった。 「夕方には交代がくる。よかったら案内しようか?」 「いや」エシュは首をふった。 「友達と一緒だし、案内はいらないよ」    エシュは男の誘いを断った。  なのに夜になってもアーロンの心はざわめいたままだった。視察の旅のあいだ時々同じようなざわめきを感じていて、そんな自分自身に苛立ってもいる。エシュは友人だ。だから彼がまずいことをしでかすなら、忠告したり、助けるつもりもある。でも友人のやることなすこと、視線ひとつに惑わされるなど馬鹿げたことだ。  その晩ホテルの部屋で横になっても、アーロンはなかなか眠れなかった。町のホテルは小さかったが部屋数は多く、随行員は狭いながら全員個室をもらっていた。真夜中をすぎているにもかかわらず、町はずれの厩舎にいる騎乗竜の様子をみようと思い立ったのは、無言で寝返りをうつのに飽きたせいだ。 「エシュ?」  隣のエシュの部屋をノックしても返事はない。もう眠っているのだろうかと思いながらドアノブを握ると、内側から押されるようにひらいた。風が吹いている。  ベッドはきれいなままで、床に荷物が広げられていた。窓が開いている。風がアーロンの短い髪をかきまわした。 「エシュ?」  部屋には誰もいなかった。
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