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後編
細い道はならびたつ街灯で照らされていた。アーロンは風のなかに湿り気を感じる。
エシュはどこへ行ったのだろう。ホテルの庭には誰もいなかった。アーロンの中で、どうにかして友人をみつけだしたいという欲求と、もし彼があのバルの男と逢っていたらどうするんだ、という考えがせめぎあった。
ひとまず最初の思いつきのとおり、町はずれの厩舎にいる竜を見に行くことにした。大きな都市であれば飛翔台も騎乗竜の厩舎も数か所あるが、こんな小さな町では一ヵ所だけだ。もっとも飛ぶ高度が異なる荷役竜は飛翔台も異なり、厩舎もちがう場所にあるらしい。
どこでもそうだが、厩舎は十分な広さがある。視察の旅の竜たちはおなじ囲いにいた。一頭ずつ止まり木に鉤爪でつかまっている。竜の寝相には個性がでる。アーロンの竜は止まり木の上でまっすぐに体を起こして眠るし、エシュの竜はぶら下がって眠る。夜のあいだ腹が丸くふくらんでいるのは竜の体内に共生する微生物が活動しているためだ。翼の羽ばたきに加え、体内の微生物が作り出した空気胞を後尾から噴射することで、騎乗竜は高所を高速で飛ぶことができる。
クウクウ、と鳴く声をアーロンは聞きつけた。騎乗竜は人間の鼓動の音で個人を識別する。彼らはひとの体内をめぐる血の流れをききとることができるのだ。
自分の竜がそっと頭をさげてきて、アーロンはすこしほっとした。鼻面をかいてやり、飛翔のあいだにうろこにこびりついた虫の死骸を指でこすりおとす。エシュの竜はぶら下がったまま眠っているか、少なくとも眠っているふりをしているのだろう、微動だにしない。手入れ道具の位置も変わっていないし、主人はここには来なかったのだろうか。
「おやすみ」
ささやいてアーロンは厩舎を出た。エシュはどこへ行ったのだろう。薄暗い道を風がまた通り抜けた。アーロンは風が吹いてきた方向、町の後背の山をみあげた。バルの男は町の裏側に山地へ入る道があるといっていた。だがこんな真夜中にそこへ行く人間がいるというのか。
エシュならわからないぞ、とアーロンの心でささやく声がする。彼は思いがけない行動をとることがたびたびあった。あとで考えると間違っていないのだが、他の誰ひとりとして思いつかないようなことをするのだ。
この街灯はどこまで続いているのだろう。アーロンはふとそんなことを考え、一度厩舎に取って返した。鞍袋からトーチを持ち出して町の裏側へ歩いていく。地図の複製で予習していたおかげでだいたいの位置はつかめていたし、バルの男の話に出た整備された道はすぐにわかった。山腹に展望台があり、そこへ向かっているのだ。
アーロンが階段と坂道を交互にたどっていくあいだも、道の片側には山腹から生える木々の梢と空、片側は根がからまる岩とわずかな土の山肌がみえていた。昼間はそれほど雲が多いとも思わなかったが、真夜中のいま、空は厚い雲で覆われ、その白が漆黒を背景に浮き上がっている。こんなところにエシュがいるはずがない。しばらく歩いたアーロンがそう結論づけようとしたとき、何かが視界のすみ、上の方でうごいた。
エシュ。あれは彼の髪じゃないか?
アーロンは反射的に道をそれ、森の下生えに分け入った。トーチの小さな明かりを頼りに急な斜面を登るのは骨が折れた。木の根につかまりながら這うように歩くうち、前方にぽっかりと木のない空間があるのがみえた。岩棚だ。あっ、と思った。岩棚の前にエシュが立っている。見慣れたシルエットは間違えようがない。
友人は腕をあげ、指を曲げて奇妙な仕草をしていた。ごうっと風が吹き、とたんにアーロンは強い水の匂い、雨がくる気配を感じとった。見上げると空ではすばやく雲が流れている。いったい彼は何をしているんだ。アーロンは腹立たしいような感情に襲われながらふたたびエシュがいた方向を向いた。その時だった。
岩棚には竜がいた。巨大な竜だった。
横長の岩棚が鉤爪の止まり木にしかみえないほどの大きさだ。騎乗竜の数倍はあるにちがいない。鉤爪のすぐ上のところに月のようにひかる丸いものがある。眼だ。つまりそのあたりが竜の頭――
アーロンはぞっとして後ずさった。果たして帝国が管理する竜の〈地図〉にこんな巨大な生き物が登録されていただろうか?〈地図〉がないのなら、この竜は〈法〉のもとにないということだ。
そうだとしたら、エシュが危ない。
はっとしてまた前に出ようとしたときだ。アーロンの視界の先でエシュの手がのび、竜の顔に触れた。竜は動かなかった。魅入られたようにアーロンの足が自然に前に出た。ゆっくり近づいてもエシュも竜も動かず、そのままだ。
「アーロン、トーチを地面に向けてくれ」
唐突にエシュがいった。
「そのままゆっくり来いよ。大丈夫だ」
アーロンはぎくりとして一旦固まったが、友人の口調がいつもと同様に軽いことに力を得た。トーチを真下に向けてゆっくり進む。岩盤に降り立った巨大な竜の足の前で、エシュは背伸びをしていた。竜の眼のまわりをかいているのだ。
「バルの男がいってた『雨の竜』だよ。ここ、かゆいらしい。おまえならもっと上まで届くな」
「――大丈夫なのか?」
友人があまりにも平然としているので、アーロンはどう反応すればいいのか途惑った。だがエシュはゆったりとうなずき返す。
「大丈夫さ。この個体ははじめてだが、竜種は知ってる」
「だが、法は――」
「支配されないからといって悪をおよぼすとはかぎらない。アーロン、俺の手の上のあたりだ。かいてやってくれ」
静かに、だがきっぱりといわれた言葉にアーロンは逆らえなかった。竜の眼のまわりに盛り上がった厚いうろこの表面にかさぶたのようなものがあって、剥げそうで剥げないのだ。とはいえエシュやアーロンの手でこすりおとせるような代物でもなかった。
「とれなくてもいいさ。雨がきたらいずれ――」
「雨」
アーロンはこだまのようにつぶやき、手をひっこめて空をみた。黒い夜空の中で白い雲が急激に動いている。
「この時期だけ、雨を追ってここに来る。雨季を連れてくるんじゃなく、雨が降りそうな頃合いに到着するんだろう。俺の生まれ故郷じゃこの竜種は『雨の竜』とは呼ばれない」
「それで知っているのか?」
「帝国に〈地図〉化されたときも、この竜は支配を逃れた」
エシュはぽつりといった。アーロンは思わず顔をしかめそうになった。エシュの出身地は数多くの竜種が棲む地区で、帝国に制圧されたあとも長期にわたって住民の抵抗運動が続いた。最後の反乱者が帝国に下ってからまだ五年も経っていない。エシュをめぐる悪い噂は彼がその地区の出身だと知られてからますます激しくなった。
「どうして雨を追ってくる?」
「かさぶたを落とすためかな」
エシュは冗談のようにそういったが、あきれ顔のアーロンを見返してふわりと微笑した。
「まさか。つがいと交尾するときに雨が必要なんだ」
「雨が?」
「この竜は火焔を吐く。いつもは騎乗竜よりずっと高い場所で暮らすから、俺が故郷でみかけたのも数回だけだが……火焔を吐く竜種は大きさに関わらず、まぐあうときに水を求める――来たぞ。はじまる」
何が、とたずねようとしたとき竜が頭をもちあげ、アーロンは後ろに倒れそうになった。エシュの手がアーロンの腕をつかんで支え、下がれというように引っ張る。ぶわっと風が吹いた。竜が翼を羽ばたかせたのだ。瞬間的にあたりが熱い空気をぱっとはらみ、と思うと竜はもう舞い上がっていた。ぽつりと水滴がアーロンのひたいに当たった。
雨。そう思ったとたん、次の雨粒が頬に落ち、また次の雨粒が首筋に落ちた。大粒のしずくが木の葉をうつ音が響くなか、横をみるとエシュは満面の笑みを浮かべて空中をみつめていた。雨が髪や顔を濡らしているのも、足元に跳ね返るのも気にしていないようだ。エシュの視線をたどってアーロンも空をみた。
雨が降る暗闇で二頭の竜が舞っていた。四つの巨大な眸が月のようにきらめき、尾が絡みあっては離れ、また絡みあう。飛びながら、一頭の翼がもう一頭を抱擁するように包んだと思うとぱっと離れ、くるりと回って頭をつつきあう。
まるで踊っているようだ。そう思ったときエシュがいった。
「求愛のダンスさ。お互いをうけいれるまで踊って、つがうんだ」
雨はますます激しくなる。たしかにこの竜は雨を連れてきたようだとアーロンは思う。眸の光に雨の水滴が反射して、まるで舞台照明のようだ。アーロンの背筋に寒気が走った。すでにずぶ濡れなのだから当然かもしれない。反射的にエシュの腕を握りしめ、濡れた服の下にぬくもりをさがした。
「エシュ。雨がひどくなる。避けよう」
エシュの眼は名残惜しそうに空をみているが、二頭の竜の眸の光芒はだんだん遠くなっていた。もっと高い空へ飛翔しているのだ。アーロンはエシュの腕をひき、とりあえず雨を避けようと山肌に露出した岩の下へ走った。
「雨季がきたな」
服から水を滴らせたままエシュがいう。ひさしのように突きだした岩の端からしずくがしたたりおち、アーロンとエシュの足元に小さな流れを作っている。アーロンはトーチの金具を岩の内側のでっぱりにひっかけた。もう竜の眸の光は届かず、トーチの黄色い光があたりをぼんやり浮かび上がらせているだけだ。アーロンは短い髪を両手でかきあげ、ひたいに落ちてくる水滴を払った。エシュの肩に垂れた髪からはまだしずくが垂れている。薄い服地が肌にぴったりとはりつく。
「雨は面倒だ」
アーロンはつぶやいた。雨のなか騎乗竜を飛ばすのはいろいろと不都合がある。
エシュが笑った。
「ほんとうは騎乗竜はそんなに雨が嫌いじゃないのさ。人間の乗り手は嫌がるけどね。野生の竜はよく、雨の中で遊ぶ」
「それは――エシュの故郷で……?」
ためらいがちに問うと、エシュは短く「ああ」と答えた。黒い眸が森をみつめている。いや、森でないどこかをみているような気がする。はじめて会った日にもエシュはこんな風に遠くをみていた。ルー将軍の庭園に座っていたのだった。花の香りをのせた風が流れたとき、エシュはふとアーロンのいる方を向き、ふたりの視線があったのだ。
唐突にアーロンの臓腑に理解が落ちた。あの瞬間から俺は彼に魅せられていたのだ。ずっと、何年も。
「ただ雨季と呼ぶのも無粋なものだな」エシュがつぶやいた。「ここからとても遠い――遠い世界のとある国では雨季のことを『梅雨』というんだ」
「つゆ?」
「その国の文字で『梅の雨』を意味する。梅という植物の実――酸っぱいのがね、大きくなるころだ。しばらく雨が続く」
アーロンは馬鹿のようにぽかんと口をあけていたにちがいない。エシュは突然「ごめん」といった。とたんにアーロンは彼の眸を孤独の影がひたすのをみた。
「でたらめさ。誰かの作り話だ」
何が自分を突き動かしたのか、アーロンにはわからなかった。それは衝動的な行動だった。アーロンは乾いた岩盤にエシュの背中を押しつけた。エシュの濡れた服のさらに下で筋肉がこわばるのがわかった。
「アーロン」
「おまえが好きらしい」
言葉はアーロンが考えるより前に口から飛び出す。飛び出して、もう戻らない。
「俺は……エシュ。おまえが……」
黒髪のあいだで金色の筋が光った。エシュの眸がかすかに細くなる。竜の眸をアーロンは思い出す。唇がかすかに動いて、言葉を形づくった。
「ああ。知っていたよ」
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