江戸の結婚は家同士の結びつき

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江戸の結婚は家同士の結びつき

 自由恋愛に近い恋をみてきましたが、江戸の人は、一般的に、周囲や親から勧められた相手と結ばれる事が多く、地位や立場が高くなるほどその度合いも高くなりました。  武家は、縁組に関しても幕府から細かい規制があり、許可を得ないと婚姻は認められませんでした。また、一財産持つような家の跡取りも、”釣り合わぬは不縁の元”と言われ、同等の家格から迎える事が多かったようです。  江戸時代は、何よりもお家大事。家名を汚す事を何より嫌い、次世代につつがなく渡すことに細心の注意を払っていました。  家存続の為なら、実子であっても家の為にならないと判断すれば、廃嫡、勘当し、代わりに品行方正な者を養子に迎える事もあったほどです。  武士にとって、その代で扶持が増える事は、(ほまれ)ではありましたが、何よりも大切なのは、今ある地位から外されない事。 上役に目をつけられないように、禄を減らさぬように、慎重に毎日を送っていました。  小普請組と呼ばれる無役の者は、役に付けるようにと家族や親せきに叱咤され、万に一つの可能性にかけて、毎月、6日、19日、23日と決められていた、逢対日(あいたいび)(上役に求職活動する日)に、早朝からせっせと通っていました。  合戦が無くなって久しく、武士も人員オーバー、お家断絶や放出された主君を持たぬ武士、いわゆる浪人は、基本的に奉行所にその住居を知らせてはいましたが、武士といっても届け出る上役も無いので、婚姻相手については自由だったと思われます。  商家では、跡取りとなる者は幼い頃から、いかに当主といえども、その財産は全て家のモノ、(わたくし)することの無いようにと、教育されていました。  そうは言っても、勘当もせず、好き放題やらせてしまったのか、親が亡くなった後そうなってしまったのか、 ”売り家と唐様で書く三代目” 放蕩が過ぎて、家を売る羽目になった三代目を歌った川柳も残っているように、一代目の苦労を知らない世代で店が潰れてしまうことが多かったようです。 (唐様とは、洒落た文字の事で、芸事には精通してるけれど、商いは出来なかったんですねという皮肉ですね)  没落する前になんとか手を打ちたい!そんな時は、持参金をあてにした縁組もありました。    婚姻は、家の安泰、家同士の結びつきが大事で、当人同士の相性は二の次、三の次。添うてみればなんとやら、というように、一緒に暮らすうちに、夫婦の絆は深くなるものと考えられていました。  
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