結婚(武家)1

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結婚(武家)1

 武家の婚姻は藩や幕府の許可が必要でした。  幾たびか出された武家諸法度ですが、1615年に最初に大名向けに出された、徳川秀忠発布の元和令にはすでに、 「私ニ婚姻を締フヘカラサル事」(勝手に婚姻を結ばないように) とあり、その20年後の1635年に、家光によって発布された寛永令では、 「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」と、その範囲を物頭(下級武士を束ねる中級武士)まで広めています。 武家諸法度に違反すると、減俸、改易、取り潰しと厳しい処罰が下りますが、6度出された武家諸法度全てに婚姻を勝手に結ぶことを禁じる条項があり、 幕府は、諸藩が婚姻により軍事力を拡大し影響力を持つことを、恐れていた事が伺えます。  組頭同士のように同じ役職での婚姻は認められず、地位や石高などの釣り合いの取れた家格の縁組しか認められませんでした。 がんじがらめのようですが、町民から嫁ぐ事も、町民へ嫁ぐ事も禁じられていましたが、一度武家の養女となり武士の娘となったり、反対に町民の養女となって士分を捨てるなど、抜け道はあったようです。  上役や、親、親戚からの進めで決められていく婚姻、上級武士になればなるほど、派閥なども鑑みて能々見極めての縁組が行われたようです。  縁組が整えば両家から、所定の機関に届け出ます。 その届出を受け、大名ならば将軍が決済し、旗本ならば若年寄や老中が、御家人ならばその役職の上役が許可します。  許可が出れば結納となり、婿側が嫁側に祝いの品々を贈ります。 上級武士ともなれば、その後、双方の家長(父親)が招いたり招かれたり2,3日かけて盃を交わし、間柄を深める事もあったようです。 結納以降は、よっぽどの事が無い限り破談にはなりませんでした。  その後婚礼を行い、間違いなく嫁を婚家に引き取ったという”引取届け”を提出すれば、手続き完了です。引取届けが、現在の婚姻届けというところでしょうか。     武士と言っても江戸時代の武家は、そのほとんどが財政難でした。 万年赤字の下級武士などは婚礼を行う費用の捻出も難しく、引取届けだけで済まし、婚礼を行わない家もあったようです。
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