江戸の歯磨き

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江戸の歯磨き

寛永寺から出土した徳川家親族の遺骨の口中を調べたところ、多くの人に、顎の前歯の裏側や、臼歯を覆う程の歯石が見られました。 人から見られる前歯は滅茶苦茶一生懸命磨いていて、玉のように光っていると言われていましたが、そのほかは、あまり磨いていなかったようです。 歯並びも悪く、歯周病による病変で歯の脱落や、虫歯がみられ、口内環境は良好とは言い難い状態だったそうです。 武家も庶民も歯磨きはしましたが、武家の方が習慣として定着していたようです。また、食べ物がそれ以前の時代より柔らかくなった影響で、歯並びが悪くなった人が増えた時代でもありました。 治療も抜歯もままならず、放置した結果、顎骨に膿がたまり、細菌が血管に入り込み”敗血症”になり亡くなる人も多かったといいます。 歯磨き粉は、専門の歯磨き粉売り、楊枝屋、小間物屋、大道芸人などで売られていました。 ”本郷もかねやすまでは江戸のうち”と江戸の範囲を示すうたがありますが、この「かねやす」はもともと、歯磨き粉専門店でした。口中医である兼康祐悦が考案した乳香散という歯磨き粉を扱っていました。 歯磨き粉で有名なのは房州砂です。 砂といっても、あの砂利の砂ではなく、陶土を水で濾した上澄みの、細かい粒子、天然炭酸カルシウムパウダーの事です。 元禄6年刊行の「救民妙薬集」にその配合が書かれています。 ・砂、百目(375g) ・新丁子(クローブ)、二匁(7.5g) ・薄荷、一匁(3.75g) ・肉桂(ニッケイ)、一両(37g) ・龍脳(樟脳(しょうのう)に似た芳香をもつ無色の結晶)二分(0.75g) ・紫壇(防腐剤効果あり)一両(37g) ・甘松(かんしょう)(鎮静効果があり)一両(37g) 歯を磨くには、楊柳の木から作られた”房楊枝”を使います。楊柳の、楊は猫柳、柳はしだれ柳の事で、柔らかい柳の木が材料です。 作り方は簡単で、適当な長さに切った枝の一方、又は両端を槌で叩いて房状にするだけです。一方をヘラにし、舌磨き用にしたものもありました。 店先で作って売るスタイルでした。大坂では男性が、江戸では女性の仕事でした。 房楊枝は、とても安く、浅葱裏と呼ばれるお金の無い勤番侍でも買える上、江戸の美女と話せる場として、人気があったようです。 『焚き付けにするほど楊枝浅葱買い』 と川柳にも詠まれるほどでした。 黒い長細い箱に砂と、房楊枝を入れ保管しますが、面倒くさがりは袋にそのまま房楊枝を突っ込んでいました。 砂も房楊枝も買えない人は、塩を指につけて磨いていたといいます。 歯数ですが、若い人は平均2本程度の抜け、熟年期でも5本程度しか抜けていないのですが、老年期に一気に30本くらい抜けてしまいます。 これは若いうちに罹患していた歯周病が、年を取るにつれて重症化した結果ではないかということです。 加えて女性は、悪阻や、ホルモンの影響、歯の食いしばりなどでお産が原因の虫歯や脱落歯もありました。 入れ歯は、口中入れ歯師という専門職によって造られました。 痛くて使えなかったと記憶していたのですが、それは外国製のもので、日本で作られたものは、とても精密で最後の微調整もしっかり行っていたそうです。 土台は加工しやすく、抗菌作用もあり、肌触りの良いツゲが使われ、歯の部分は蝋石等が使われました。 上下総入れ歯3両(22万5千円)したといいます。お金持ちの持ち物ですね。因みに現在では材質によりますが、保険適用で2万円程度のものもあるようです。 松尾芭蕉、小林一茶、曲亭馬琴等虫歯や脱落歯に悩む人が多い中、以前、江戸の養生訓で紹介した貝原益軒は、毎朝、塩で歯と歯茎を磨いたあと、20~30回お湯で濯ぐことを続け、老年になっても1本も歯が抜けていなかったといいます。
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